प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教と倫理学

'15.05.27

仏教と倫理ではなく、仏教と倫理学についての話です。

さて。

仏教を仏教として学び実践することは基本だけれど、最近、仏教以外の人々に対して、仏教の立場でどう関わって行くのか、という点に関心が出ています。これは個々の人に対してもそうだし、非仏教的な日本社会・現代世界に対してもそうです。
「私は仏教の立場だから」と言って自己完結する生き方もある意味で清々しくて宜しいのですが、たとえば「いじめ」や「戦争」「仕事の意味」「生きる意味」「善と悪の規範」「政治」「原発・核問題」「安全保障と基地問題」などの幅広い側面に置いて、仏教徒としての立場でありつつ、仏教的ではない一般社会と共通のコトバがやはり必要ではないかと。
自己一身が如何に生き・死ぬかという点だけでよければ、仏教だけでもいいと思うんですが、他者との関係性において我々がある以上、そこで留まるわけにも行かないと思います。少なくとも菩薩だの利他だの言う以上は。

で、具体的にどういうことかと…。

たとえば、「~すべし・~してはならない」という倫理規範で社会秩序は成り立ちます。
社会だけではなく、自己一身の行動においても、それぞれの規範が存在しているはずです。「無規範」を標榜する者であれ、自分ルールは何かしらあるはずです。
仏教徒であれば十善戒や四無量心、その他の規範があります。キリスト教やイスラームにもそれぞれの規範があります。それぞれの信徒にとっては、前提となる倫理規範であるはずであり、その点では問題ないところです。
同じように、現代日本にも「法律」「慣習」としての規範があります。
ところが現代の社会問題の源泉というのは、これは宗教的な前提を欠いている点で、この規範の根拠・正当性が疑われているところにあると思います。ただ条文で「こうすべし」、「昔からこれが当たり前」というのでは、個々の行為をもはや納得をもって律していけない。
かと言って、仮に仏教的規範を示したところで、仏教徒でなければ、押し付けられた社会規範とそれは同じ程度の説得力しか持っていない。
ここに、依って立つ倫理的根拠が消滅し、人々・社会が方向性を喪失して路頭に迷う状況が出てきているのではないでしょうか。個々がめいめい勝手な「自分ルール」を設定し吹聴して他者に影響を与え、混乱に陥っている。「自分ルール」にも根拠はないので、結局「好き嫌い」レベルのものでしかない…。

この倫理上の問題、危機について、これを根底から考えてきたのが「倫理学」です。もちろん西洋的な思想経緯によって形成されて来た側面は拭えませんが、それでもメタレベルにまで徹底して考えようとする倫理学は、「倫理」というものの一般的性格を浮かび上がらせるのに、非常に有効なのではないかと、最近、私は考えています。

「なぜ、是非の命令が成り立つか・或は成り立たないか」「倫理が成立するか・或は成立しないか」「絶対的倫理と状況倫理は両立するか、しないか」ということを、仏教という個別の立場に立ちつつも、より一般的な立場でしっかりと考えていく、社会的に共通の言葉で根源的に考えて発信していく、その必要が、特に僧侶には求められているのではないでしょうか。

単に「仏教では~~」というのでは、一般社会への説得力はないに等しい時代が、もう来ています。
また、僧侶や仏教徒も、無自覚に「そんなもの」として受容していた仏教的規範を一度は根本から考え直していく、解体して自分で組み立て直してみる、そういう作業をしていかないと、本当の意味での確信は生まれてこないと思われますし、非仏教者・非仏教社会との真の相互理解は果たされないのだろうな、と、そのように考えます。
そういう意味で、「倫理学」というものの考え方を一度サラっとでも押えておくことは、むしろ必須ではないかと。「十善戒」はなぜ「善」たりうるのか。それを仏教徒ではない人にとっても「善である」と、善の根拠にさかのぼって説明できるのか。そもそも「善」と「悪」とは何か。絶対的なものか、相対的なものか。相対主義は無限後退に陥らないのか。このくらいまでは、別に他人に説明しなくてもいいんですが、自分の中で一通り考えておくべきかと思います。