प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

生と死

'15.04.09

人は死んだらどうなるか。
永遠の問いです。
そこから「存在とは何か」という問いも出てくるんですが、さて。

「死んだことがないのでわかりません」
「だから死ぬまでしっかりと生きればいい」

そういう「答え」をよく聞きます。

でもこれは違うんじゃないのかな、と。

そう言っていいのは、実は死ぬ、生きる、ということを自身で正面から納得している人だけが言っていい言葉であって、生半可な状態でそう言うのは、たんなる思考停止、誤魔化しに過ぎないように思う。
ホントにそんなんで「納得」できてるのかな。

「死ぬことを実際に経験していない」ので「語れない」のは正しいでしょうか。
実は、生きていることは不断に死につつあることなのではないでしょうか。
だとしたら、まさに今、「死につつある」のだから、その状態を経験していることを観察していくことが、まさに「死を語る」ことにつながるんじゃないだろうか。
死と生は断絶していると思うから、「わからない」となる。

生死とは、それは、波の頂点と下点の相違であって、実は同一の存在のポイントの違いにすぎず、そのポイントは不断に交流して影響し合う、一連の流れであると。
だとしたら、本当の意味で「生きる」ことを知るためには、波の下点である「死ぬ」ことをしっかりと掴まなければ、何もわかったことになりません。
同時に「死ぬ」ことの意味を探るには、「生きる」ことの事態をしっかりと見つめていなくてはならないんです。

これこそ形而上学ではない、純然たる「経験主義」であって、「死」を固定化した「なにものか」と思う所に、形而上学的で戯論的な言説が出てくる。でもそうじゃなくて。

今の社会の「死の隠蔽」「アンチエイジング」「若さ至上主義・老いの否定」というところからは、どうしてもまっとうな「生と死」の考え方は生まれてこないように思いますが、どうでしょうか。