カフカ『橋』
'15.03.29橋
私は橋だった。冷たく硬直して深い谷にかかっていた。
こちらの端につま先を、向こうの端に両手を突きたてて、ポロポロと崩れていく土にしがみついていた。風にあおられ裾がはためく。下では鱒の棲む渓谷がとどろいていた。こんな山奥に、はたして誰が迷いこんでくるだろう。私はまだ地図にも記されていない橋なのだ
――だから待っていた。待つ以外に何ができる。一度かけられたら最後、落下することなしには橋はどこまでも橋でしかない。
ある日の夕方のことだ――もう何度くり返してきたことだろう――私はのべつ同じことばかり考えていた。頭がぼんやりしていた。そんな夏の夕方だった。渓谷は音をたてて黒々と流れていた。このとき、足音を聞きつけた。
やって来る、やって来る!――さあ、おまえ、準備をしろ。おまえは手すりもない橋なのだ。旅人がたよりなげに渡りだしたら気をつけてやれ。もしもつまずいたら間髪を入れず、山の神よろしく向こう岸まで放ってやれ。
彼はやって来た。杖の先っぽの鉄の尖りで私をつついた。その杖で私の上衣の裾を撫でつけた。さらには私のざんばら髪に杖を突きたて、おそらくキョロキョロあたりを見回していたのだろうが、その間ずっと突きたてたまま放置していた。彼は山や谷のことを考えていたのだ。その想いによりそうように、私が思いをはせた矢先
――ヒョイと両足でからだの真中に跳びのってきた。私はおもわず悲鳴をあげた。
誰だろう? 子供か。幻影(まぼろし)か、追い剥ぎか、自殺者か、誘惑者か、破壊者か? 私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った
――なんと、橋が寝返りを打つ!
とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角(つの)を突き出している岩の尖りに刺しつらぬかれた。
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このお話は、色々な意味を含んでいます。
作者のカフカは真面目な郵便局員として一生を終えた作家です。
毎日毎日、同じことの繰り返し、本当は小説だけ書きたかったのですが、それでは生活できない。
不本意な仕事をしつつ、夜に小説を書く生活をする、その自分の身動きできないところを、「橋」として表現しているように思います。
彼は、仕事は仕事として、一所懸命にやっている。
郵便局員として、橋として、義務をしっかりと果たしています。
しかし、生活の中で「何か」が起こる。楽しげなこと、トラブル、色々なことが起こります。それに動転して、結果、すべてをメチャクチャにしてしまう…。
「何か」が起こった時、動転せずに、自分の今の状態をしっかりとわかり、冷静に判断していれば、そういうことにはならないのですが、「何か」が起こるその状況にひきずられ、自分の立場を忘れた時、悲劇というものが起こってしまいがちです。
人はいつも、「ここでないどこか」に憧れ、新しい事、違う人生を想像して、他の人が「輝いて」見えるものです。そして自分がみじめに見えたり、「こんなはずじゃない」「つまらない」と思ってしまいます。
仏教の教えは、「今・ここ」の教えです。
今、やるべきこと。
今、やりたいこと。
このふたつをしっかりと考えて、「今・ここ」で私は何をすべきなのかを意識して生活することで、地に足の着いた生活が出来ます。
他の人の生活や仕事に憧れることは良いことです。他人の考えを意識・忖度することも大切です。それを参考にして、自分の人生を向上させる材料になります。
でも、「あなたはその人ではありません」。自分自身の生活で「今・ここ」で「何をすべき」で「何をしたい」かがわかっていないと、ちょっとした他人の変化に、自分自身が動揺してしまいます。
この小説は、それを教えているように思えます。
日日の仕事、なすべき義務をしっかりと努め、同時に、自分のやりたい事をしっかりと見極めてやる。このバランスが、幸せへの道です。