प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

阿弥陀信仰

'15.02.03

どうも「阿弥陀信仰」「念仏」というと「ださい」「暗い」「迷信」「何も考えない愚か者の教え」というイメージが、一般だけじゃなくて仏教者の中にもあるように思う。これは真宗や浄土宗のサイドの問題もあるのだろうけど、果たしてそうなのか。

真宗や浄土宗のことはとりあえず措くとして。

阿弥陀如来信仰というのは、そもそも「光の教え」であると思う。阿弥陀とは無量光・無量寿という意味だけれど、重きはどちらかというと無量光のほうにあると私は感じていて(チベットでは無量光と無量寿は別の尊格でしたね)、これはやはり西アジア起源の信仰形態が多分に影響していると思うんだけれど、この思惟形態は西アジアだけではなく、ヨーロッパも含めた汎ユーラシア的な信仰ではないかと。
もっと言えば、世界の根源を光で示すというのは、たぶん人類の心情の根源にあるものであって、決して「特殊」でも「暗い」ものでも、まして「迷信」でもない。
深い瞑想の境地で示された「光」というものを現実レベルで形象化した時に、「阿弥陀」というものが立ち現われてくる。これは言語道断の認識不能な「一者」が、私たちのレベルに降りてくるその境界線上ぎりぎりのポイントにあるもので、単に迷信的な偶像崇拝では決してないのではないかと。
であるとすれば、阿弥陀如来信仰というのは、きわめて瞑想的で汎人類的な、根源的なところの信仰と言えるのではないか。法身が「言語道断の一」であるとすれば、こういう意味において阿弥陀如来は正しく「報身」として私たちに瞑想の中で働きかけてくる「神秘への門」に該当する尊格といえないだろうかな、と。
人間の側からその「ポイント」を見たときに現れる存在が阿弥陀であるとすれば、これは決して軽視してはならない、仏教の枠を超えた普遍的真理をも指し示す「徴」ではないだろうか。
この観点で、たとえば阿弥陀経などを見たとき、その象徴性のめくるめく世界に、迷信や「物語」以上の何かが立ち現われてくるのではないだうか…。

えぇ、はい、真宗あたりの人には噴飯ものの解釈でしょうが。

しかしたとえば『起信論』にどうして阿弥陀如来が出てくるのか。単に阿弥陀如来信仰が流行してたのでそれを取り込んだだけだとか、真宗や浄土宗が念仏の正当性を立証するためだけにそこだけ切り取って利用するためだとかいうのではなく、そもそもあの修道的文献において取り上げられた意味というのが、それはあるのだと思う。
私もどうして『起信論』に阿弥陀如来だけが固有名で取り上げられているのかずっと謎だったんだけれど、仏教の枠内だけで考えるのではなくて、汎ユーラシア、あるいは人類普遍の霊性というところでこれを考えた場合、もしかしたら阿弥陀であることの重大な意味が実はあったのではないか、と。だって、当時の中国の仏教って、イラン系の僧侶がかなりいたわけでしょ。『起信論』周辺にも。マニ教やゾロアスターの影響は確実にあったよね(私は本論の撰述問題は、インド人または西域人が中国で撰述したものだと思っています)。
今の時代、どこもかしこもセクト主義全盛で、自分たちの枠を超えたら異端だ他宗教だと、そう考えて自分たちの世界だけでものを処理しようとするから、なんかわからなくなる。解釈も苦しくなる。当時の実践者は、もっと柔軟で、仏教という窓を通しつつも、更に広く深い、色付きではない「真理」「実在」というものを意識していたのではないでしょうかね。もっと言うと、「仏教」という枠組みよりも、「実践者」という枠組みの方が重大ではなかったか。
所詮、言語化されたドグマは人間の不完全な認識を通して描かれたフィクションに過ぎない。それを先人は、よーくわかっていたのだと思う。だからこそ、大乗経典が次々に生まれて来た。もしそうじゃなければ、古典墨守で終わったてしょう。

そう思うと、「阿弥陀信仰」「念仏」にまつわる「ださい」「暗い」「迷信」「何も考えない愚か者の教え」というイメージが、本当はとてつもなく人類の根源に接する、とても巨大な教えになるのではないかと思う。
無論、最終的には阿弥陀も極楽も、その形象は捨て去る必要があります。ただ、人格的なイメージを通して根源に行きつくという方法も立派なひとつの道であり、正道ではあるでしょう。その意味で、実践論の最後に阿弥陀信仰について述べるのも、これは論者の意図として当然のことだったのかも知れません。