प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

死というもの

'13.07.01

【SNSから】

葬儀に臨み、ただ単に「カネがもったいない」というのは、ちょっと寂しい考え方だな、とは思います。仏教でやるとかやらないとか以前に、人の死という場面で「カネをかけたくない」というのは、やはり寂しい考え方ですよ。
誕生、成人式、結婚式でカネをかけても惜しくないのに、葬式は安くあげたい。それは、死というものを厳粛に受けとめない、「生が価値あり、死は価値なし」という、とても偏った、悪い意味での目先の実用主義的な思想に毒され過ぎている考えではないかな、と。
見える世界だけに価値があり、見えないもの、それは単に「霊」という意味ではなく、「いのち」というもの自体も見えないわけですけれども、そういう不可視のものは「ない」という事ですよね。そういう思考回路を進めていくと、感情も薄くならないのだろうかなぁ。死というもの、またそれを噛みしめる場でもある葬儀をきちんと価値あるものと位置づけできない社会って、豊かだと思えません。
これは、仏教的にどう死を考えるのか…という以前の問題として。

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いずれにせよ、あまりにも死というものを「あってはならないもの」と考え過ぎではないでしょうか。こういう考えは「アンチエイジング」とか「エンバーミング」の裏にも潜んでいるものだと思いますが、それって、どうなのかなぁ…と。
あまりにも死が身近過ぎた過去の時代、確かに死を忌避するという考え方が主流になることは仕方ないですが、それでも死というのは具体的なイメージで存在していました。
今はそれを隠し過ぎて実感もなくなり、その実感のない状態で「それは悪だ」としてしまうことは、本当に「死」というものに対する「あってはならない感」が先鋭化して、「いざ」それが身近になった時に「早く元の状態に戻さねば」→「なかった事にしたい」となり、そんな「なかったことにすべきもの」に対してカネをかけるのは「もったいない」に連絡されて、いよいよ「死」にどう臨むべきかわからなくなる。

別に仏式で葬儀をすべきとか、そんな事じゃなくて。
もう一度、死を取り戻すべき時期に来ているのではないかなと。