प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

議論すること

'13.06.02

学術的な対話は一応、文献や客観的事実に立脚して実証的に行われるものだと思う。まぁ勿論、そうじゃない場合だってあるし、そもそも客観と主観とは…などと言い始めたら際限ないのだけれど、まぁ、一般的な意味では、実証的に行われる。
そういう議論や討論はすべきだと思う。個人の感情や意見ではなくて、文献や事実によって語らせる、的な(その解釈という点で個々人の意見や傾向は出るけれど、それは結構なこと)。

私の嫌いな議論というのは、文献的証拠や客観的事実のない信条レベルの話で優劣を競う…という類のそれ。ネットに氾濫している「議論」のほとんどはそういう議論。学術的なテーマを扱っていても、ほとんどは自分の信条をどうやって相手に押し付けるかという、互いにそれだけのものが多過ぎるように思えます。

もちろん信条や意見を表明するのは大事です。ただそれは議論という形式にあまり馴染まないものが多いので、私みたいにブログで独り言を言ってる方がいいと思うんですよね。信条レベルの事って、合意できないですよ、ほとんど。既に「私はこうだ」という立場がある者同士、客観的なものがなければ議論など成立しません。
で、結局は最後には大声を出せる者が勝つという。

私は色々な人の話は聞きたいと思うし、違う考えも聞いてみたいと思う。
でも、議論したいとは思わない。時間の無駄だから。
お互いを尊重した、お互いの立場を表明し合うだけの穏やかな対話なら歓迎ですが、どっちが正しいか…なんて話が出てくるのなら、直接対話はご勘弁ですね。そういうのは、独りで考えて、独りで書きますから(笑)

あ、あと。
「私は文献的に立証された立場で語るから」という人もいますけれど、大抵は文献を曲解して我田引水に考えていたり、結論ありきで文献を差し込むような話が大体のところですので、そういう人がもしいたら、多分、敬して遠ざけるかな(笑)
最近(昔から)よく見かける話題の宗教家にも多いタイプです。ひとりで所見を述べるだけなら私も参考になるし、良いんですがねぇ。なんで自賛毀他してまでシンパが欲しいのだろうか…と。謎。

詰まる所。
私はひとりで考えて、ひとりで実践していたいだけなんですわ。誰に評価されたくもないし、議論もしたくないし。
ただ、自分ひとりで考えるためには色々な見方というものを学びたいし知りたいので、話だけは色々と聞きたいと思う。そして私は「法師」ですから、仏教に関しては、縁のある人には私の仏教の見方が参考になる場合もあるかもしれないので、色々な場所でお話はします。私自身が色々な話を聞きたいのと同様に、私の話も誰かの参考になれば良いな、と…ま、「私の話」というか、ほとんど仏典の話を砕いて話すだけですけれどもね。多少の解釈は避けられませんが。

さて。

「そうは言っても、そんなひとりがいいなら、坊さんとしての立場はどうなのよ? なんだか参考程度の話をするだけで、そんなことで坊さんとして良いわけ?」

…と思われるかも知れません。

ま、法師として色々と考えるところはあるし、他者との関わりや仏教実践について思う所も多々あります。役割もあると思っていますし、そういう諸々のことって実質的な意味もあると思っています。
問題が拡散してもややこしいので、この記事で「ひとりで云々」というのは、信条レベルの事において「議論する」あるいは「考える」という一点についての話です…と、そう理解しておいてください。