प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

自己肯定

'13.02.18

如来蔵思想が、無限定で無条件の自己(というよりも、自我)肯定に陥ると、悪い意味での「本覚思想」(私はいわゆる天台本覚思想が悪いとは思っていませんが、行き過ぎる危険性は常に持っているのでは、と思っています。その悪い意味においての、それ)に陥ってしまいます。「(悪い意味での)本覚思想」などというと「そんなの知らないよ」と言われますが、要は「あなたはあなたのままで良い」という、あの微温的で「やさしい」巷の通俗的仏教が啓発本で垂れ流している「思想」のことです。

如来蔵思想というものは、「何かに変化する必要はない、あなたの(そして「認識世界」の)本質が仏陀・真如自体だ」という思想ですが、それは「あなたはあなたのままで良い」ということとは、まったく違うことを言っているのです。ここがわからないと、菩提心も修行実践の必要性も、仏教教学の存在意義も、すべてわからなくなっていきます。

ポイントは、自己肯定と自我肯定の相違です。

絶対的な主客不二の極点を前提とした自己肯定(そこには既に自己否定の介在する余地すらない)と、自他相対の巷に生きる「わたし=自我」肯定とは、次元がまったく違うのです。
もしそれがわからないのであれば、「あなたはあなたのままで良い」ということと「無我=非我」はどういう関係にあると言えるのでしょうか。また、「自灯明」という時の「自」とは何なのでしょうか。それは、「魂」「霊的な意味における個別アートマン」と仏教はどういう関わりを持っているのでしょうか。自己肯定と自我肯定を混同する者は、いつまでも「如来」を「何らかの神格」の変形として拝むだけの「信仰」にとどまらざるを得ないのではないでしょうか(人間崇拝も含めて!)。
自我肯定には菩提心も行も学も不要です。それは、日常的分別心の嫡子です。
しかし自己肯定は正しく、仏道の眼目です。肯定しうる自己など、私たちは誰も生まれてこのかた、想像すらしていなかったのですから。これを「顕現」させるには、(一部の宗教的天才を除く凡夫人には)菩提心と行学が必須です。
そうしてはじめて、肯定するものも否定するものもない、ただただ「ある」…「有無を超えた」「ある」という事態が成就されてくるのだと思われます。その境地を私ももちろんまだ味わったことはありませんが、その世界「認識」の方向性が正しいという「信」を持っています。細かい教学など以前の、全体的直感と言いましょうか…。

いずれにせよ、このような「仏教」が本筋だと、私は考えています。
「あなたはあなたのままで良い」。然り。本質論としてはその通り。しかし、現実にはそれでは迷いの分際にあり続けるのみで、苦海に沈む分断された自我はいつまでも漂流して、繰り返し溺れ死に、また苦海に生まれてくるだけなのです。