प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

釈尊の言語

'12.08.27

仏典の聖句についてではなくて、あくまで言語についてです。

私は大学でサンスクリットを2年くらい齧り、ギーターや法華経を文法書片手に読んでた程度ですから、以下の記述はあくまでも色々な学者の説を斜め読みして書き散らしたものに過ぎません。つまり駄文です(ただ、書く以上、意図はあります)。
ですので、私の能力不足もあり、記事への苦情・質問は受け付けられません。悪しからず…パーリ至上主義者の方は、むしろ読まないほうが良いかも知れません(-_-;)

さて。

現在、仏典の「原典」といわれるものの言語(文献記録)は、パーリ・サンスクリット・チベット語そして漢語の四つです。チベット語と漢語はそれぞれチベットと中国のものですから、もちろん釈尊みずからが使用した言語でないのは当然です。これらは「翻訳語」です。
一方のパーリとサンスクリットはインドの言語ですが、もともとサンスクリットは釈尊在世の時から雅語あるいは上位言語として確立されており、王族であった釈尊ももちろんサンスクリットは理解していた筈です。これが理解できなければ、バラモン思想に近づくことは出来ない訳ですから。釈尊はしかし、サンスクリットは上位言語である為、一般民衆に対して語りかけるに相応しくないので、この使用をしなかったとされています。
一方のパーリは、俗語です。個々の単語はサンスクリットと類似しているものが多数あり、俗語の中では比較的サンスクリットと近いとされています。

問題は釈尊がパーリを使っていたのかどうか、という点です。
かつてはそう考えられていた時期もありましたし、南方仏教(パーリ仏教圏)では今でもそう信じられているようですが、結論から言うと、それは単なる「神話」であろう、という事です。最近の研究ではパーリは西インドの言葉であり、釈尊が活動された中部インドでパーリが使用されていたわけではない、ということだそうです。そして釈尊は西インドには行かれていない…と。
現在でも、中インドのヒンディー語と西部のマラーティー語やグジャラート語などは、親戚関係の言語(ドイツ語と英語の関係?)ですが、まったくの別言語です。当時は今以上に通信手段がなかったわけですから、言語間の相違は今以上にあったのでは…と想像します。
結局、釈尊御自身は伝道に際しては、パーリもサンスクリットも使用していなかった、というのが現実のようです。

現在の上座部がではなぜパーリを使うのかということですが、一般民衆への伝道の為には俗語を使用した方が良いということで、恐らく各地でそれぞれの俗語・口語を使っていたのでしょうが、スリランカに伝道した部派が使っていたのが主にパーリであった…ということなのではないでしょうか。
一方のインドの諸部派では、他宗教・他思想家との論理学を駆使した論争が不可避の状況になっていましたので、厳密ではない俗語を使っていては専門性の低下を招くと同時に、全インド的な普遍性を持てないと言う事で、徐々に俗語使用が廃れ、サンスクリット中心になっていったのでしょう(つまりサンスクリットはリンガフランカ…東亜におけるかつての漢語、また現在の英語と同様の地位を占めていたということです)。
大乗仏教はほぼすべてサンスクリットで経・論などが記述されます。

そう考えていくと、結局のところ釈尊が使用していた言語は何であったかというのは、正確にはわからない、というしかありません。
サンスクリットを理解していたのは当然としても、主たる言語として利用していなかったのは確かですから、俗語であったことは事実でしょうが…アルダ・マーガディー(中期マガダ語)という事で指示される言語であったらしいことは確実のようですけれども、そもそもプラークリット文献の最古のものがアショーカ王碑文である以上、これも確実な事は言えないのでしょう。

なお、パーリをはじめとする俗語(プラークリット)は、サンスクリットからの派生言語が多いようです(もしくはヴェーダ語から人工言語としてのサンスクリットと、自然発生的なプラークリットが派生したそうな)。もちろんヴェーダ語と関係ないドラヴィダ系言語などとの混交も俗語においてはあるでしょうし、南部に行けばむしろ現地語にサンスクリットが影響を与えた場合も多いでしょうけれど。

まぁいずれにせよ、「パーリが釈尊の使った言葉だ」というのは、少なくとも学問的にはもはや成り立たない、ということは言えると思います。もちろん信仰としてそれを信じるのは自由ですが、無量義経における「四十余年未顕真実」を歴史的事実として他人に無理矢理押し付けるのと同じ穴の狢とならないよう、パーリ釈尊金口説も個人的な信念に留めておくのが無難ではないかと思います。