प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

神とは

'12.06.28

某サイトに私が書きこんだものを、備忘の為に転載しときます。
掲示板的でのやりとりなので、前後の文脈もあるのですが、そこは無視。

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神道の立場から主神、という考え方が成立するかは知りませんが(するとしたら、それは多分クニトコタチかな?)、仏教の立場では、ヒトラーであってもその本質は善なるもの(ただ誤解のないよう付言しますと、仏教での善は善悪二元論の善ではなくて、善悪不二の善、つまり善悪の彼岸にある絶対的な真如です)と考えます。無明によってその善性が隠没されているだけです。
但し「それを証明せよ」というのは土台ムリな話で、聖書の神だってかなりサディスティックですよね。あれが「完全なる善」なんて、そりゃちょっと怪しいところです。イエス・キリストにしても、冷静に客観的に見れば、まぁ偉人でしょうけれど、人類史上、他の追随を一切許さぬほど突出して素晴らしい…という程の卓越性はないように思えます。結局、キリスト教に於いても「信仰の有無」に真理性は担保されているわけです。仏性の存在証明についても同様で、そもそもそれを信じない立場の人には言うだけ時間の無駄、ということになります。こういうのを「水掛け論」と言います。
因みに「神」というものに関してですが、仏教において「神」というのは基本的には「迷いの分際」でして、人間よりも高位の生命段階ではありますが、それは「業の結果としての現状」ですから、その恵まれた状況にあっても現在、悪業を積んで行くことは可能ですから、必ずしも「神」だから表層の行為もすべて「善」である、ということにはなりません。力能は卓越していますが(だからこそ祀られます)。
結局、神に倫理性を求める、というのはセム系一神教の特徴であって、神道あるいはヒンドゥー、古くはギリシャ・北欧・エジプトに至るまで、神は力能の故に祀るのであり、倫理のゆえに祀るわけじゃない、という方が一般的なんじゃないでしょうかね。だからこれは「世界観の相違」であって、キリスト教的観点を他の宗教に強制するのは、端的に間違いです。