प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

御札・御守

'12.06.30

・質問

御札・御守って何? ただの気休めじゃないの?

・答え

御札の中って、ボール紙や木札が入っていますけれど、単なるモノじゃないのかな…という疑問は、誰しも持ったことがあるでしょう。あんなもん「効果」あるのかいな、と。

まず神道的な考え方でいうと、そもそもボール紙であっても「依代」ならば神宿りするのではないでしょうか? 森羅万象の悉くすべてが神の依代としてある、というのが神道ですから。

もちろん私は神道の信者ではないので、ちょっとニュアンスは違って来ます。
仏教においては、そもそも物質と精神・形而上と形而下・主観と客観の境目は本来的には無い、つまり仏性普遍(ただし覚知の作用がないので無情のものには仏智の用や成仏の果はないけれど、仏性そのものはある…というか、不二の全体が即仏性)なので、御札も仏智により加持されることで、この俗世にあってのイコンとしての役割・用大が出てきます。
仏教徒も神を拝むことがありますが、少なくとも私の場合について言うと、キリスト教の神のような「至上の人格として拝む」ということではありません。神というものはあくまでも「不可視の力能」というもので、人間よりは良い境遇のものではあるでしょうが、その人格の高下についてまで機械論的に規定されるものではないです。神にも自由意思があります。あくまでも力能について、拝すべき対象である、と言う事です。これは尊敬できる人間がいる一方で、尊敬できない低劣な人間もいるのと同様で、だからと言って「人間一般は…」と括らないのと同様です。
但し、いずれにしてもその本質は「善なるもの」です。拝むのはその本質部分であり、表層ではありません。仏教徒の立場では、人間も神も同一線上であり、価値としては一緒です。力能の相違です。
他方、キリスト教的な神、それは私たちの言う「本質的善」というものを別個に取り出して人格化したものですが、それを別立して主宰者の地位に押し上げるのならば、それを捨象した「その他一般」は拝むに値しないものとなりますが、そうではなく、森羅万象の根源に善なるものを認め、それらが不可分一体であると考える立場からは、あらゆるものが至高の存在となり得ます。そしてその至高の存在は通常は煩悩・無明(神道ではケガレですね)によって隠されていますので、その隠されない状態の象徴としての「依代」をイコンとして設定する、ということは、それほど特殊なものではないと思います。

つまり御札・御守というのは、そのような世界観に立脚し、純粋なる絶対的・善的なもの(仏教では仏性・真如)の象徴的イコンとして、自らのうちにある真如を顕現させる触媒としての役割があります。これを見、これを意識することは、ひとつの観想であり、自らの霊性顕現の一助・助縁となるものです。結果的に、そういう自らの向上・純化が守護に繋がっていきます。
逆に言うと、「これさえ持ってれば安心」的な「おすがり信仰」では、ほとんど意味がないと私は思っています。仏教というのは、魔法ではないので。最終的にはあくまでも自分自身のあり方の問題に帰着します。