प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

犀の角

'09.11.08

仏教には色々な流れ・宗派がありますが、詮ずる所すべからく一大海に還帰することを指し示し(智慧)、而して万象悉く安寧の真如法海に入らしむる(慈悲)ことが、その眼目です。
しかし…「密教の荘厳な車列をもって仏道を歩むのが最上である」「否、余の諸々の行は雑行であるから、ただ座禅のみもってせよ」「題目とともに歩むべきが仏道の正統で、法華経のみを頼りとせよ」「人間は自力では仏道を歩めぬから、念仏を申せ」…等々…自他を比べてどちらが上か、優劣を喧々諤々と議論して飽くことないのが現実ではないでしょうか。
仏教の本筋を踏まえていればそれは仏陀の正嫡であり、それぞれの「やり方」の優劣などを論じたところで、何の益体もありません。問題は「わたしが」どの仏道を踏むのかであり、結局どの道であれ、智慧・慈悲の円満具足に向かうものであれば、間違いではないのです。道の中途で立ち止まり、他の道について終わりなき戯論を弄したところで、自身の仏道において何一つ益はないのです。
広く仏法を聴聞して取捨選択していくことは大切ですが、歩く道はひとつです。徒に他の道を批判したところで、他の道の者との論争に終わりはないでしょう。そのために自身の足を留めては仕方がありません。

自他の現に歩む道の差異を論ぜず、ただ己にとって、それが一大海を覚するに時空なき絶対の道であるかのみを問え。