प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

方便

'09.10.24

たとえば、「神がいる」という考え方は確かに方便ですが、実は一真如の生滅面はすべて「方便」であるとすれば、結局「私がいる」というのと同程度のリアリティはあるわけですよね。
結局、その人がどういう風に一存在を分割して認識しているかが「世界のありかた」ですから、正しく「神がいる」と信じている人にとっては、それは「神がいる」わけです。逆に、「神などいない」世界を割り出した認識で世界を構成している人にとっては、神はいません。
だから、仏教では神の存在を否定も肯定もしていないのです。浄土や霊の存在についても同様、そこは特段に重要なポイントではない…。
大切なことは、そういう世界認識の因って来る所以をこそ覚さねばならない、ということです。そこから現象してきたあらゆる認識は仮構のものである(無自性・非我)わけで、本来は有無相対を超えたものです。
ですから「(認識対象としての)仏・神は方便だ」と言う時、それは「おとぎ話である」というのとはまったく違う事を言っています。「私の子供の存在は方便だ」とも言えますが、それは「おとぎ話」ではないのと同様です。

…なんて言うと突飛に聞こえるかもしれません…「真理相対主義だ」と言われることもありますが、そうではないことは、恐らくわかっていただけるかな…?
要は、神がいるという立場でもいないという立場でも、真如についての「覚」を基盤とした思想であれば、どちらも「外した」考え方ではない、ということです。どちらでもいい。
どうして仏教があらゆる思想やアイデアを含むことができるのか、ここらあたりにヒントがないでしょうか?

もっとも、歴史的に形成されてきた「如来信仰・菩薩信仰」というのはもっとも素朴な観念でして、真如も何も踏まえていないですから、これは無明に基づく妄念の所産で、それは確かに当人にとっての「世界」ですが、少なくとも覚につながるものでないことは確かですけれど。
こういう「観念」を覚に振り向けるためには、単に「外部的存在」としての神…仏教で言うと如来や菩薩を、一真如という主客不二の全体として自心の源底に顕現せしめていくプロセスが大切です。このプロセスを「行」と言います。
その具体的な方法論は様々ありますけれど、認識対象を自明のものとして自分に対置するという考えを抜け出さないのなら、どのような行をしようとも、それは「自己」鍛錬・「自己」啓発以上のものにはなりません。むしろ「自己」意識を強固にする方向性であるならば、まったく有害であるとも言えるでしょう。

こういった部分も踏まえて釈尊以来の仏教では、少なくとも修行者くらいの立場であれば特に、経験的に確かめられない形而上学的問題に関しては議論しない、という立場を取っています。
確かに「わが子」も「神」もどちらも「仮構」のものであることに違いはありませんが、経験的に共有不可能な後者の場合は、如何なる意味でも議論するだけ時間の無駄(にも関わらず必ず白熱した論争になる!)ですので、無記とします。
前者については言及しますが、それをしなくては言語活動が成立しません。
既に分別世界の住人である我々は、少なくともある程度は共有できる「経験的世界」を通してのみ覚に至る行為(や菩薩行等)を為し得るわけですので、形而上学的概念と経験的概念は、理論的には同一の性質を含みつつも、実践的にはまったく違ったものとして扱うことにしているわけです。