प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

仏教の効用

'09.10.23

よく、「仏教の勉強をしたら覚れますか?」とか、あるいは「生きるためのヒントが得られますか?」「人間関係を円滑にできますか?」「自己啓発になりますか?」などという質問をされて困ることがあります。
もちろん質問される方はそれなりに悩み苦しみ、仏教にその解決方法を求めているのでしょう。その気持ちはわかります。
しかし結論から言うと、仏教をそのまま「マニュアル的」に使って「答えを求め」たとしても、何かが最終的に解決するという事はまず、ないでしょう。気休め程度のことにはなるでしょうし、もしかしたら「穏やかで良い人」になることも可能でしょうけれど、実は根本的な解決にはなりません。

どうしてでしょうか。

多くの人の場合、自分の悩みや課題に対して仏教の教えが「自分を肯定してくれて、正しい道を示してくれるのではないか」という気持ちがあるからだと私には見えます。
このような思い違いをしたまま仏教に接近しても…もちろん無意味とは言いませんが、このような姿勢は、どこまでも「自他」をガッチリと固定化して、この自分あるいは他者を分析して、あわよくば自分に都合のよいように作り変えたい、という欲に基づくものでしょう。

そして仏教は、「自他対立」「肯定-否定」そんな気持ちそのものが無意味であり、幻であり、無明の産物であるという教えです。「自分にとって」などという心をこそ見つめ、その無意味さを明らめ、自他の分別を超えた行を淡々と行うのみです。
具体的な教説とはマニュアルでも解答集てもなく、自他不二の行を即今に踏みしめるための仮の杖でしかありません。

つまり、仏教とは単に「あなたはこの道を歩きなさいよ」という教えではなくて、「さぁ果たして、自他不二という時にその仏道を踏みしめるのはいったい誰なのか」ということを突きつけてくる、そういうものなのです。
そこにこそ言詮不及の「唯一の答え」があるわけで、それ以前の「様々な答え・言語的教説」は、結局はそこに導くための「化城」「方便」でしかないのです。仏道を歩く上で重大な意味はあるけれど、そこに止まれば道を誤る、そういう性質のものです。

「だったら善悪も道徳もないじゃないか」と言われそうですが、確かに巷間の常識的な感覚で言うところの「悪」と対置された「善」などは、本質的には「幻」です。そんなものはありません。
しかし、上来に示したような仏教の考え方に沿ってみれば、自他分別をガッチリと行い、それに執着し、あわよくば自分のものとしたい…という無明丸出しの妄心を滅する方向が善であると考えれば、それと対立する方向は「悪」と言えるでしょう。もちろんこの「悪」には、世間的な「善」も含まれて来ます。
ですから、世間的に「悪」とされていることは確かに「悪」ですから、仏道の観点からも、それらは真如への道を妨げる無明妄念の極みとして、それを受容することはありません。同時に「善」とされることも無批判に受容するのではなく、そこからさらに深い真如へと向かっていく必要があるのです。

…もっとも、最終的には善も悪もすべて一真如の異相でしかなく、我々が一なる全体を無闇に分別して錯乱し、勝手に描きだした妄想に過ぎないわけですが…それはともかく。

すべてを善悪にバシッと分割出来れば(ただし分割された両者とも、自分を「善」と考えるのですが!)とても楽なんですけれど、仏教ではそういう考え方はしていないのです。
ここら辺りを腹に据えて、その上で人生の色々な具体的問題を見渡してみると、確かに問題は解決はしていないかも知れないですが、それを見る「眼」は確実に変わっている事でしょう。