प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

宗教という料理

'09.10.19

私は中華料理こそが最も美味しいと思っています。インドに行ってもインド料理よりも中華(インド風)を食べています。
だからと言って、何もフランス料理やイタリアンや和食が邪道で、「あんなもん料理ではない」とは言いません。ただ、私は、中華料理こそが料理の精髄をもっともよく示しており、これを通して料理の真実の意味を掴みとれるのだと、そう信じているだけです。
同様に、他の料理が口に合い、尚且それらの料理を通して「真実」に触れる類の人がいることを否定はしません。それも十分に可能だと思うからです。
ただ私は中華料理がもっともその試みに相応しいと思い、それをそれとなく人にも勧めますけれど、頼まれもしないのに他人の口に運んで無理やり食べさせたりはしないだけです。試してみればどうでしょうか?…という提案です。
そして私も他の料理を味わうことは、当然あるのです。否定し合う関係ではない。

食事の真髄は、結局は「善く生きる為に体を養い、真実を掴んでいく実践をする」ことにあると思いますから、究極的には中華料理にはこだわりません。要は、その所期の目的を達成できるかどうか、それが全てです。
ただ色々と検討を経た結果、私には中華が初期の目的を達成するのにもっとも相応しい、バランスの取れた料理だと思えるだけです。

いずれにしても、完成された「~料理」というのは、それ自体が目的ではありません。

以上が、仏教というものの宗派の相違、広く言うと宗教の相違もこういうことでしょう。つまり、私にとっての「中華」とは大乗仏教であり、『金剛般若経』であり『根本中頌』である、というわけです。

ただ、例えば雑菌の入った水で調理すると体を壊す場合がありますし、食材によっては調理方法を間違うと死ぬことすらあります。脂分が多すぎる、また合成着色料が多すぎる、ということだと、長期的には病気を引き起こす原因になりかねません。
単に「どんな料理でもいいのだ」と言うと、そういうわけでもないのです。「善く生きる為に体を養い、真実を掴んでいく実践をする」という目的に反する料理というのも、どうやらありそうです。
このあたりの見極めをつけるために、私たちは基本的な栄養学等の知識は必要ですし、場合によっては調理の技術も必要になって来ます。これがいわゆる「仏教学・宗教学」そして「論理学」、場合によっては「自然科学」などの学問の重要性でして、もちろんこんなものがなくても真っ当な料理であれば何も問題はないのですが、食べてはいけないものを食べてしまう危険性を回避することもできません。完全に「運任せ」になってしまうでしょう。
これじゃあまりにアバウト過ぎます。

そして大事なことなんですが、無論この知識や技術も、もちろん「目的」ではないですね。
これを振りかざして、真っ当な料理間に正邪高低を客観的・最終的・論理的にランク付けることは出来ません。何を食べて良くて何が悪いのか…という点に関して、「ある程度の」見通しをつけるだけのことですし、最終的な判断と責任は、それを食べる個々人の判断にすべて委ねられているのです。
ここを間違えると、今度はまた偏った食生活になりかねないことは、火を見るよりも明らかなことです。
宗教という料理に「危険食材リスト」は必要でも、「ミシュランガイド」は必要ではないのです。

…という態度が、特に他者・他宗教者に対しては必要で、この姿勢のない所に「宗教間対話」も「相互理解」もありません。
もちろん個々の内面では「この料理でなくてはならないのだ」という信仰があるのは自然なことですし、私も中華料理を通して、「世界最高のオーダーメイド料理」を形成して、自分にとって「もはやこれしかない」ものを探求しています。
しかしそれでも、大事なことは「善く生きる為に体を養い、真実を掴んでいく実践をする」ことだけです。ここを忘れては意味がありません。

何をもって「善い」と言えるのか、という問題については…これはまた別の重要なテーマになりますから、ここでは取り敢えず触れないことにします…。

因みに、栄養学的に中華料理がもっともバランスが取れているかどうか、私は知りません。この記事はモノの譬えですから、そこを突っ込まれても私は困りますので悪しからず(笑)