प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

因言遣言

'09.09.12

一心・真如…主客相対を超えた境地は、本当は言葉では示す事が出来ません。言葉はその性質上、主客を分割して記述することしかできないからです。ですから仏教書・経典や宗教書・哲学書・思想書に書いてあることはすべて、便宜的かつ仮設的な「比喩」以外の何ものでもありません。あるいは、池の月…。

一心・真如こそが主客相対以前の絶対「一」の存在であり、それはもちろん「私」の本性でもあるわけです。すべてが「一」に収斂されるわけですから、いったい真如を覚ると言っても、「誰」が「何」を覚ることができるでしょう。また、「真如を言葉で表す」だなんて…たとえば「A」という言葉は、「A以外のもの」を排除することでしか成立しないのですから、排除があり得ない「絶対一の真如(←これももちろん便宜上の仮設的表現ですね)」を正確に記述するなんて、そんなことは不可能です。

17世紀のキリスト教神秘主義詩人・シレジウスの『ケルビムのごとき旅人』の末尾の詩に、「友よ、もうこれで十分である。もっと読みたければ、赴いて、あなた自身が文字となり、本質となりなさい」(263)…と書いてあります。
いくら究極のところを言葉を尽くして語ったところで、最後には言葉が意味をなさなくなる時が来ます。ギリギリまでは言葉で語る必要がありますが、その時に使われる言葉は、言葉を超え出ていくための言葉です(因言遣言)。決してその表向きの言葉に留まっていてはなりません。

我々の二元論的な言葉の世界を超え出て行った先、その究極的地点でこそ本当の「言葉」「真如の声」を聞きたいと望むなら、シレジウスの言うように、もはや「あなた自身がそれそのものになる」しかないのです。
誰かが何かを読むのでも、聞くのでもなく、ただただ、「すべてが一としてあり、対境を聞かずして全的に聞き、対象を読まずして全的に読む」のでなくてはなりません。

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毎度毎度、似たような事を書いております。

しかしこのあたりのことが飲み込めれば、「覚り」とはどういうことか、それ自体を指し示す事は原理的に不可能であるにせよ、少なくとも何がしかこの世で行くべき方向性だけは示せるかと思い、飽きずに書いています。
私はもちろん道半ばの人間ですが、「山の頂上」と信ずるところの場所を指さすことだけは許していただきたいと思います。それは誰しも行くべき道のゴールであるとともに、私が死ぬまで独り辿るべき道程の極みでもあり、絶対の場所である…少なくとも私はそう、信じているのです。

毎度の繰り言も甚だしいですが、それだけ大切な事だと私は感じ、書いています。