प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

憎悪と分別

'09.09.06

「あいつは嫌い」「ムカつく」「生理的に無理」…なんてことは、誰でもが感じることでしょう。もちろんあまりいい感情ではありませんが、しかし、こういったことを今までまったく感じたことがない人間は、そういるものではないと思います。
私たちは、このような「憎しみ」「憎悪」という自身にまとわりついて離れない感情に対処しなくてはなりませんが、近代日本有数の知性と言われた小林秀雄は、「憎悪」について、以下のように語っています。

「憎悪は、感情のものというより寧ろ観念に属するものなのだ。
おのずから発する憎悪の情というものはないので、一見そう見えるが、
実は恐怖の上に織られた複雑な観念であるのが普通であり、
意志や勇気や行動に欠けた弱者の言わば一種の固定観念なのである」

                         ――小林秀雄『カラマアゾフの兄弟』より

小林秀雄は恐らく、感情と観念でいうと、感情をより根源的なものとして考えているようですが、いずれにしても仏教では、感情も観念も無明をその出発点とする「妄想・妄念」という点では同じ地平にあるものであって、結局は苦をもたらすのだ、と考えています。

十二縁起というものがあります。

「無明(無知)によって行(形成作用)がある。
行によって識(分別作用)がある。
識によって名色(名称と形相=五蘊)がある。
名色によって六処(眼耳鼻舌身意)がある。
六処によって触(外界との接触)がある。
触によって受(感受作用)がある。
受によって愛(欲望)がある。
愛によって取(執着)がある。
取によって有(存在)がある。
有によって生(生まれること)がある。
生によって老死・愁・悲・苦・悩が生ずる。
これらのものによって苦の集まりができる。
これが縁りて起こるという」

                
――『相応部経典』

無明・無知というのは結局、ものごとを対境に仮設して考える、主体と客体を想定して分割する、つまり「あれとこれ」「私とあなた」を対置して物事を見たり考えたりすることのすべてを指します。言語や概念、また「観念」というものは、このレベルで通用するものです。もちろん感情も同様です。

結局、憎悪に対処しようとした場合に関して言うと、殊更に「憎悪は感情のものではなくて観念である」という必要はありません。
小林の意見に則って考えてみても、それでは「私は感情的ではない、もっと知性があるし、理性もあるのだ」という自我意識・ジェントルマンシップでもって「憎悪」をその場その場で抑制する方途はつくでしょうが、それでは根本的な解決にはならないように感じるのです。
人間の感情や観念の由来をもっと根本的に考えていく必要がありますし、その根本を退治しなくては、地中に残った雑草の根のように、時期が来れば再び「苦」「妄想・妄念」「憎悪」が生えてきてしまうでょう。

そしてその根本はやはりどうしたって、無明妄念…つまり、主客対立的な思考であり、分割・分別による自他の線引きをしてしまう、人間(衆生)のどうしようもない性癖に行きつきます。
ですから私たちが憎悪から離れるためには、憎悪そのものを対症療法的に退治しようとしても、それは恐らく徒労になるでしょう。小林秀雄のように、それを観念的なものだと言って対処可能のように取り扱おうとしたとしても、その奥にもっと厄介なもの(無明妄念)が潜んでいますので、取り繕うことは出来ても、根本的な解決にはならないのだと思います。

無明とは何か、私とは何か、「これ」と「それ」の違いとは何か、言語の持っている性質、主客の関係性とは何か、区分することの意味、感情の根源について…このようなことをよくよく考え、そして思考も分割・分別の分際ですから、最後にはそれをも超えていくようにしなくてはなりません。
その過程で、憎悪や渇愛・虚しさ・不安…畢竟「苦」というものがそもそも「妄念の産物であったこと」を「覚る」のだと思います。私はまだ自覚的に「覚」してはいないかも知れませんが、それでもこのような作業を続けていくうち、少しずつ自心の「重し」が抜けていく感じはしています(…「重しが抜ける」というよりは、世界が少しずつ清澄明瞭になっていく感じ…というか。ちょっと言葉にし辛いですが)。

まぁ、少しずつ~になる、と感じているうちは、キッチリ妄念の分際なわけですが(汗
だからいくら「重しが少し抜けて清澄になったかな…」と感じようが、私は毎日毎日、荒れ狂う感情と妄想の荒波になって、自我を張って右顧左眄して虚勢を張り、ああでもないこうでもない…と迷走している実態は変わりありません。

結局。
この記事や過去ログでも書いているように、「覚」に向かって「行くべき道」は理解しているつもりになっていても…しかし、覚「に向かう」だの、「行くべき道」だの、そんなもの「アタマで理解」しているうちは主客相対ドップリの思考回路なわけで、何にもならん、ということです。

すべて単純なことなのに、何ともなかなか、難しい。