प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

自力と他力

'09.08.23

仏教ではよく、「自力」「他力」という言葉が使われます。
一般的には、阿弥陀如来にすべてをおまかせして自分のはからいを捨ててしまう浄土教系の立場を「他力・浄土門」、座禅その他の修行を行って覚りに至らんとする道を「自力・聖道門」と言うようです。

でも、そんなに単純に割り切れるものなのかなぁ…?

例えば浄土門にしても、最初に「阿弥陀様に手をあわせよう」「念仏してみよう」とするのは、自力的な側面があるのじゃないか、と。「徹頭徹尾他力」というのは理屈としてはそうにしても、現実問題としてはちょっと強引な論法のような。
他方の自力にしても、仏法の流伝なくしての修行はなく、まったく自己完結して外部の影響を排除した成就など不可能なんじゃないでしょうか。第一、真如法界との自己同一性を無視した「自分だけの力」など、存在しません。

「いやいや、自力・他力とはそういうものではなく、あくまでもこの煩悩深重の凡夫が修行など及びもつかないのだと自覚したのが云々」

いや、宗学の理屈はそうなんでしょうけれど、しかし凡聖不二・真如法界と不一不二の我々が、そこまで自力と他力を「分別」してしまう必要があるのでしょうか。と言うより、そんなこと可能でしょうか?
どっちの要素も混然として分割不能なんではないでしょうか?

例によって海の譬えですが、「海が波として自己を認識した」状態が「覚り」であり(「波が海であると自覚」するのではないことに注意!)、それを自覚するしないに関わらず「事実としてそうである」状態を「如来蔵」と言うわけです。
そうであるのなら、海を無視して波だけで「自力」を云々するのはまったく無明の分際ですし、同様に、「波は無力だから海に任せよう」とする「他力」も、海と波の本質的同一性を忘却しているならば、同様に「無明」の分際です。

例えば親鸞聖人が言う「他力」なるもの、もう少し深い意味があったように思うのです。単に「すべてお任せ、私は無力でございます」だけであれば、そんな教えは仏教ではないでしょうし、宗教思想として考えてもほとんど魅力がありません。
親鸞聖人ひいては法然上人など歴代の浄土法師・論師が、そんな大乗仏教の基本的な部分をすっ飛ばしたとは到底、私には考えられません。

ま、浄土系については私も勉強不足ですから何も断言できないのですが…。