प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

菩薩のことば

'09.08.10

丘山新教授の著書『菩薩の願い』(NHKライブラリー)に、宮澤賢治の詩が紹介されていました。
宮澤賢治は法華系・国柱会の信者としても有名な文学者で、彼の童話や詩の多くは、その根底に仏教・法華経の思想が流れていると言われています。
『菩薩の願い』に紹介された詩は、大乗仏教の思想をよく示した典型的なものだと思いますので、ここに紹介してみたいと思います。

おれたちはみな農民である
ずいぶん忙がしく仕事もつらい
もつと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あつた
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙へと次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

―― 宮澤賢治 『農民芸術概論綱要』

然り、然り、ですね。

ここにおいて、この本質的な観点から、果たして出家も在家もありましょうか。
そのような枝葉末節のことが、果たしてこの絶対的な真理の世界を覚するにおいて、決定的で絶対的な壁となるのでしょうか。

在俗生活こそは悪であり、害毒である。

もしそうならば、果たして出家でなくては真理を覚することはできないかも知れません。しかし、少なくとも私は、在俗生活と出家生活のどちらが害悪であるか、そんなことに関心はありませんし、どちらが上とも下とも思いません。
どちらの生活にせよ、まさにそれをしている「わたし」がどうであるか。その真実の姿は宇宙全体・真如と不可分の「一」ではなかったか。
つまりはそこに帰結し、それがすべてです。

いったい「一なる世界」において、「誰が」「何を」分割しようともがいているのでしょうか。