प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

理念と現実

'09.08.09

8世紀のヒンドゥー教の聖者、インド哲学ヴェーダーンタ学派の大成者に、シャンカラという人物がいます(シャンカラとは?)。

彼は不二一元論の哲学を樹立したことで有名ですが、その基本的テーゼは「我々の内なるアートマンと絶対者ブラフマンは同一であり、存在するのはブラフマンのみである」というものです。
彼によると「存在するのはブラフマンのみ」であり、他は虚妄の幻影に過ぎないわけで、これを推し進めると、ヒンドゥーにおけるヴァルナ・ジャーティ制、俗に言うカースト制による絶対的な身分差別も成り立たなくなるはずです。

しかしシャンカラは、この「知識」を得て解脱できるのはバラモンのみである、という当時の伝統的な観念に完全に同意していました。

『ウパデーシャ・サーハスリー』によると、不二一元論の教えをうける資格のある者としていくつかの条件を出していますが、その中に「〔外的にも内的にも〕清浄なバラモンであり、聖典の規定に従って師に近づき、カースト・職業・品行・〔ヴェーダ聖典に関する〕学識・家柄について念入りに調べた弟子」にのみ、これを教示せよ、とあります。
そして、この知識によらなければ、絶対に解脱に至らない、とします。だとすれば事実上、解脱はバラモンにしか開かれていないことは自明の理です。

このように、理念と現実の矛盾や乖離というものは至る所にみられます。例えば、大乗仏教の僧俗不二・菩薩思想の理念と、現実に出家がそれを支配・独占してきた現実の矛盾等々…。
これは時代性もありますし、それまでの無条件の慣習や常識が、原理と現実の乖離を見えなくしてしまっている部分が大いにあるのではないでしょうか。我々自身も含めて、誰しもが「時代の子」「特定文化の子」なのですから。

しかし時代の変化とともに、地域の違いとともに、現実は徐々にではあれ変化して行きます。それには良い方向の変化もあれば悪い変化もあるでしょうが、少なくとも宗教・仏教に関する限り、より根本的な理念・理想に近づく方向での変化が望ましいと思います。
ヴェーダーンタ学派にしても、前世紀にはブラフマ・サマージやラーマクリシュナ・ミッションが登場し、バラモンのみならず、より全人類的・普遍的な方向性に視野を拡大して来ています。これは原理原則の変化・退廃ではなく、実はより原則的な・理想的なところに現実が追い付いて来ているのだ…と言えるのではないでしょうか。

大乗仏教徒として自らの伝統を鑑みたとき、この視点はひとつの示唆を与え得るのではないかと、私はそう思っています。