प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

如来と衆生の視点

'09.06.18

大乗仏教と部派仏教の最大の違いは、それが「如来の視点の仏教」か「衆生の視点の仏教」か、という点にあるのだと思います。もちろん前の視点は大乗、後が部派。

衆生の視点で考えれば、我々は妄念・無明の存在ですから飽くなき修行、それも徹底した出家主義によって俗を排した行道が求められます。
しかし如来の視点では、すべて森羅万象の真相は全一なる真如であるわけですから、俗と聖を分別する要はなく、在家出家の別も本質的な問題とはなり得ない。

問題は、その真如を覚するにおいて、凡夫の境涯にある我々が果たして在俗のままで如来の視点からの仏教を実践できるのか、という一点にあります。
部派仏教、あるいは釈尊は「できない」という立場で、それ故にこそ出家という形態を必須の要件としたのでしょう。
一方で、初期の本来的な大乗仏教は「できる」という立場(ここで「本来の」と限定したのは、後世の大乗仏教が必ずしも「できる」という立場に立っているとは限らないからです。もっとも極端な例は、親鸞聖人です。彼は「出家でもできない」という立場だったのでしょう)。

私個人としては、仏教は釈尊であれ部派であれ大乗であれ、基本的な構図は相違していないと考えています。問題は教理的構図ではなく、実践という点にあるのではないでしょうか。
実践面において釈尊至上主義に立つ限り、仏教は出家主義です。しかし法の実現という観点で仏陀を考えるのならば(つまり釈尊は先覚者であり歴史的に重大な先達ではあっても、数多の覚者のひとりである)、大乗の立場も当然ながらあり得るものになります。事実、大乗では仏陀を釈尊に限定しません(一世界一仏陀という思想は、私は釈尊神格化の過程で出てきた護教的教理―特定状況における対機的方便説―だと思っています)。

このあたりの問題は客観的な論証にそぐわない問題で、「仏教・真如・仏陀をどう実践的に考えるか」ということは、恐らく無前提的な「信」に属する部分でもあります。
仏教は信をもって能入とす、というわけです。
維摩を例に出すまでもありませんが、大乗菩薩のあり方を信ずるのならば、あくまでも大乗は在家居士であっても覚者となり得るし、それこそが正道であるということになるでしょう。

もちろん最終的な覚り・真如を実現し仏陀となるという地点に至るのに出家であってもそれは構いません。大乗はそこに本質的な区分を認めない、ということです(もちろん二乗・菩薩の理念・実践上の問題もありますが、ここではあくまで出家在家の形態の別と成仏の関係性だけを考えています)。

もっとも、このような議論が徒に戯論に陥ることがもっとも戒むるべきことで、大切なのはいずれの立場であれ、実践することです。仏教である限り、到達地点は同一のはずです(もっとも、その到達地点の意見の相違がまた議論の的になったりするわけですが…私も含め、人間の無明の闇はかくも深いものです)。