प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

イコン

'21.09.11

如来には固定化された形はないし、すべてのものにも固定化された形はない。それらは無自性であり空である。
だからといって仏像や仏画やこの肉体や人間や動物や諸々のも無意味なわけでも妄想なわけでもなく、すべてはその姿なき「それ」の現れであり、もし人がそれを固定化されたものと妄想してそれに束縛されてしまわない限りは、いつであってもすべては真如であり、般若一法界の法身であり、私そのものである。それ以外のものはどこにもなく、なに一つ見るものも見られるものもなく、名付けも存在しない。いや、「存在しない」ということも言うことはできない。
有であるか無であるか、などという妄想は既に最初からあり得ないことだ。もう自然にありのままにすべてがすべてにおいて全顕全露しているのだから。
その時には、仏像であれ人間であれ宝石であれ泥団子であれ、そこに何の区別があるのだろうか。すべては「それ」である。すべてに大悲が働いていたことを知って、大悲などなかったことを知る。我も彼もない「それ」に、大悲はどう働き得るだろう?
その地点から世界に戻れば、大悲しかないこの愛すべきすべてを見ることができるようになる。そこにおいて如来は姿を示し、仏像(イコン)は聖性をはじめて帯びはじめる。