प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

心を定める

'21.10.07

能求の心とは
譬えば人あって善と悪とをなさんと欲せば
必ず先ずその心を標して
而して後にその行を行ずるが如し云々
求菩提の人も亦また是くの如し

まず心を起こすところから始まる。心が動いてから善悪の形が表れる。悟りへの道もこれと同じである。

『三昧耶戒序』

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まず何をするにしても、心をしっかり吟味して定めてから行わなくてはならない。適当で曖昧なまま何かを行うならば、行為も言葉もすべてが適当で曖昧なものになるしかない。
たまたまうまく行くこともあるだろうけれど、適当で曖昧なままうまくいっても、「どうしてうまくいったのか」がはっきりと自覚できないままであれば、それは単なるラッキーであり、次は失敗に終わることになるかも知れない。

私は何をしようとしているのか、それについてしっかり調べ吟味してちゃんと向き合う姿勢を得てから動いているだろうか。何となく日々の惰性のまま浅い考えで日を送っていないだろうか。

さて。

今まで生きてきた自分が遠からず死ぬことの意味、「〈わたし〉とは何だろうか」、「〈いのち〉とは何だろうか」について、きちんと向き合っているだろうか。
それに向き合わずに、つまり、生死やいのちへの洞察なくして日々生きていくことは、ルールもわからないままに麻雀(将棋でもチェスでもモノポリーでもバックギャモンでも構わない)をやるようなもので、果たして今自分が何をやっているのかすらピンと来ないままに何となく周りを見ながら手探りでやるようなもの。
それではゲームが終わるまで、そのゲームの意味や深さはわかりはしないだろう。

仏教はいのちのルール、生死の意味を示し、私たちがいったい何者であるかを教えてくれるものだ。
それを知ると知らざるとでは、生きて死ぬこの世界の景色もまったく違って見えてくるものだ。それを踏まえて心を定め、そして具体的な行為を起こすこと。
そのような生き方をしていくことが肝要である。