प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

大乗起信

'21.10.31

波は海。我々の平凡なる心(衆生心)こそが波であり、しかし海そのものである。不一不異。

一大海は心真如。有無や主客を絶した離言真如(生滅と関わらない恒常の仏智・無量の性功徳を内実とする真如)。絶対無分別の全一的意識。この離言真如は、言葉によって敢えて波ではない海として説明されるが、もちろん両者は別でない。これが依言真如。
我々は心生滅=心の生滅変化、真妄和合の阿梨耶識により波のように現れる事象を多様に認識するが、その生滅心を通し「波は海だった」という如来蔵もまた示される。始覚→本覚。

波は形と水から成り立つ。形は身体であり、水は識・マインド。形に惑い我々は波を個別的に認識してしまう(妄念・不覚)が、それは実際には無時間的・無分節の一大海でしかない(体大、心真如)。心真如は本来一切染法・生滅と相応せず、比較を絶した不起門であるから体大のみで相大・用大を挙げない。しかしそこには仏智・無量の功徳蔵も対象化されない形で有無を超えてやはり「ある」。この衆生心の心真如相はそのまま清浄なる一大海を現わしている。

波立つ時間的・分節的事態、真妄和合の生滅心は自の体(生滅門から見た人格的・個別相対的に現れる真如…真如門の体大と別ではない、生滅門中の本覚)・相(阿梨耶識が煩悩と和合する姿と、逆にそれから離れようとする翻染の浄相)・用(随染の業用、つまり阿梨耶識が煩悩に従う働き、また本覚に迷う衆生に四無量心等を持ち働きかけようとすることの二面)で示される。
この体相用は因位(凡夫)の衆生心であるが、その体たる人格的・個別相対的真如は本来は凡聖染浄すべての拠り所である絶対一大海だから、果位(如来)の体として「体大(一切法の真如)」と言う。同じく相用も前記は因位(凡夫)であるが、相大は衆生心が如来蔵として実は無量の性功徳を蔵しているから相大(体大と合した理知不二の法身である・一切法の真如の内実は無漏の性功徳だから、コトバとして分けて説明するが別ではない)、清浄なる相大が外面に大悲として働き出す根源的機能と作用が偉大であるから用大(加持による報応身の示現)となす。このように、心生滅相によって衆生心がそのまま如来の三大であることを示すことが出来る。

ともあれ、その波に対する海・真の側面を如来蔵(煩悩に従う状態・煩悩に覆われた自性清浄心、認識次元における真如、涅槃をあらしめる原理、不生不滅の側面)と呼び、分節により世界を意味化していく波・真妄和合の観点からは阿梨耶識(個別の差別相を持った心、輪廻生存をあらしめる業の機能を説明する原理、不生不滅と生滅が和合して非一非異なる側面)と呼ぶ。これは覚りを示す心真如と同じではない(非一)が、体が同じであるから別異でもない(非異)ということである。
認識的多元性の波の位置(不覚)から真如たる海(本覚)を知り始める(またその全プロセス)のが始覚であり、一切法を摂しまた生ずる覚と不覚の二義があるものがつまり、阿梨耶識というものである。
無論、如来蔵も阿梨耶識もどちらも我々の一心であり、海と波の真相であるから、同じことの表裏である。

結局すべて波は海でしかなく、いずれにしても海は海でしかない。そして身体でありマインドである「波の形・水」にしても、それは海から離れたものではなく、一切分離できない概念上のものでしかない。そうでしかあり得ない。
さて、波であるこの「私」は一大海でしかなく、一大海は無始無明の妄念によって世界を現象させている。

では、如来とは何か。

一大海は有無や主客を絶した離言真如であり、対象となる法身は理智不二であり無量の功徳の蔵であると依言で仮に表現するけれど、それらが心生滅の次元において実際に示現するのは、如来の用大の加持による。
一大海には方向も主客もないから決して何者にも働きかけるということはない。ただ波が自らを生滅心によって波だと思い為して海から分離していると妄想しているだけなのだけれど、そもそも波は海なのだから、対象化された海はあると思えば、あたかも無量の功徳蔵から働きかけられているように認識される。それが加だ。それを受け止めて言語的多元性の波の位置から真如たる海を知り始めようと信を起こすのが、持だ。
これを加持という。
この加持感応あるところにのみ、波であるしかない私の目に、対象として認識される海としての理智不二法身の如来が「あたかも波と主客相対するかのように」示現しているのである。
もちろん、私も如来も一大海でしかない。別ではないけれど、現象世界にあっては何であれ別のものであり、それだからこそ真如は示しうるし、言説に依らずして勝義は説示されず、勝義が説示されなくては涅槃は証得されない(『根本中頌』)。

だから人は波の立場から海としての理智不二法身、或いはその働きの報応身を通して一大海を観ずるのが行としては最善である。具体の如来を通さずに我一心の波を貫く離言真如たる一大海をダイレクトに覚する道もまたあるけれど、理はともあれ行においては加持による如来の示現を以て進むのがより容易であろう。

では、いかなる如来が示現するか。
これは機縁によるとしか言えない。
理智不二法身は般若仏母(或いは大日如来)として顕現するが、その依言真如の次元で如来と相対する示現もある。波が海を見る。
また心生滅次元での働きかけである報応身等の示現は、報身としての阿弥陀如来、不動明王、観音菩薩…或いは応身としての釈尊や弘法大師…いずれにしても機縁による。時に化身として神々、自然森羅万象や隣人、敵、何らかの出来事、夢…として応現する場合もある。波が波を見る。
これは一例として阿弥陀如来が提示されるパターンが多いけれど、阿弥陀如来という具象は波であって、その波は本来は一大海たる離言真如であり無形であり認識の彼方である。そのすべての根源は「真如」と仮に依言で名付けられる自性清浄心たる一大海、また如来蔵たる理智不二法身の用大としての顕現である。波たるあなたの在り方に応じて加持感応があり、様々な顕現があり得るだろう。
その加持を手放さなければ、多様な波が入口となる。