प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

主人公

'21.12.28

我必ずしも聖に非ず、彼必ずしも愚に非ず。
共にこれ凡夫なるのみ。

聖徳太子『憲法十七条・第十』

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賢愚凡聖、あるいは貧富貴賎などなど、必ずその判断には相手があります。対立する相手を決めてから、さて「どちらが上か下か」「優れているのはどちらか」、勝ち負け優劣を見ながら「オレはどうなんだろう」と値踏みをするのが我々です。
ワタシとアナタ、アレとコレを対置して、意識的か無意識的かはともかく、大抵はそれを基本にして自己評価しながら生きているのですが、自分が劣位なら怒りや妬みや絶望や無気力や羨望が生まれ、優位ならば驕りや高慢や蔑視や傲岸不遜が生まれて来ます。
私達は常にこのような値踏みを直接に、あるいは「文化的制度的」に駆使しているのです。
確かに、このような考え方によって、たとえば学校の成績やスポーツ、芸術、技術、仕事を評価して向上に資する、という面もあります。

しかしよく考えてみてください。

このような考え方において導き出された「ワタシ」なるものは、常に「対置された相手」によって左右されるものにしか過ぎません。そんな「ワタシ」は主人公ではなく、常に主人公たる「対置された相手」によって「ワタシが何者か」を決められる脇役・道具に過ぎないのではないでしょうか。
確かに「ワタシ」なるものは相対的で、「対置された相手」によって規定されるという側面はあります。すべては縁起、より集まり相互に影響しあって成り立つものですから、ワタシとアナタ、アレとコレを対置して、意識的か無意識的かはともかく、大抵はそれを基本にして自己評価しながら生きていること自体は当たり前の状況なのかも知れません。

しかしこれは表面的なことに過ぎません。何とも対置されない「私」、相手がいないからそれはもはや「私」とすら名付けられないものですが、もしかしたら「ワタシ」と「アナタ」に縛られない、相対を超えたナニモノかがあるのではないでしょうか?
聖徳太子は「凡夫」と言いますが、優劣を言わないひとつの存在ならば、それはもはや如何なる状態のものであれ、優も劣も聖も凡も言うことはできません。逆に言えば、どんなレッテルで仮に名付けをしても構わないのですが、すべては仮の名札に過ぎなくなるのです。

諸波は一大海でしかありません。
海しかなければ、もはや誰がそれを海と呼ぶでしょうか。誰が海を見ることなどできるでしょうか。
バラバラに分かれ砕け散る波はやはりあるのですが、波にしがみつく「ワタシ」は、実は波と不可分の海である「私」であると気づくことで、値踏みの世界を超えて主人公になる道が開けてくるのです。