प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

善悪

'22.03.08

三界とは三毒これなり
一切衆生は三毒によって三界の苦を感ず

「実相般若経答釈」

この世は煩悩の坩堝である。すべての人々は煩悩によって苦しみを感じている。

…………………………

今日は3月8日ですが、かつて1983年の今日、アメリカのロナルド・レーガン大統領が一般教書演説で、ソビエト連邦を「悪の帝国」と呼んで非難した日でもあります。ソ連の構成国で最大の国だったのは、もちろんロシアです。

今また、ロシアをみんなが「悪の帝国」と呼んで非難しています。

確かに今のロシア…というかプーチン大統領は悪いでしょう。侵略や戦争で一般市民を殺すなどは正当化できないことです。

ところで、ロシアが「悪の帝国」で、自らが「正義の国家」であるというのは正しいでしょうか。欧州からはそんな声が聞こえてきますし、中国も「我々は常に善の側にいる」と言い始めました。ロシアも「自分たちこそ正しい」と言っています。

実は戦争、あるいは争いごとというのは「善vs悪」で行われるのではなく、「私にとっての善vs私にとっての善」で行われる場合がほとんどです。大抵はどちらにも「自分の理屈(屁理屈)」があるものです。
ですから、簡単にどちらが善でどちらが悪とは言えません。何を基準にするか、どの観点で考えるか、によるのです。

ですから問題は「善悪の判断基準は何か」ということです。これをしっかり決めておかないと、何も判断できません。

仏教において、基準は明快です。

貪り、怒り、無知による行為はすべて悪です。
施し、思いやり、平等心による行為が善です。

これは個人もそうですし、集団や国家のあり方についても同じです。振る舞いと言葉と考え方の3つの点で、施しと思いやりと平等心を発揮できているか、そうしようと努力しているか。志向しているか。
一見そう見えても、裏に自分の利益だけを得たり守ったりすることが真の目的であれば、それは善とは言えません。偽善は悪とまでは言えないのですが、少なくとも胸を張って「私だけが善であり正義だ」とはとても言える話ではないのです。

貪り、怒り、無知による行為はすべて悪です。
施し、思いやり、平等心による行為が善です。

この基準をもってまず自分を律し、またさまざまな人や国家の行動を見てみましょう。
恐らくどこにも完全な善や完全な悪は見出だせないと思います。如来や菩薩を除けば、みんなグレーです。
もちろん今はロシアが明らかに大きく道を踏み外していますし非難されるべきです。庶民が殺されて良い道理はありません。ウクライナが抵抗するのも当然の行為ですし、国際社会が制裁するのも必要でしょう。それは間違いありません。

しかし、完全な正義の国や人はいない、としっかり自覚して、正義に酔わないことが大切です。

その上で、現在進行形で明らかに目の前で行われている悪、つまり貪りによる私利私欲の追求、怒りによる殺戮、無知による差別などがあれば、それに毅然と反対し、施し、思いやり、平等心を世に広められるよう、ひとりひとりが自覚して生活しなくてはならないのです。
その積み重ねが、私達を如来の境地に導きますし、世界ぜんたいが少しずつ光の世界になっていく唯一の道なのだと、私は思っています。