प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

犀の角と善友

'22.04.08

経途多艱にして人烟夐に絶えたり

「三教指帰下」

仏の道は多難にして、頼る人もない。

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釈尊は「犀の角のように独り歩め」と教えておられますように、仏道はあくまで他人を頼らずに独り歩み続けなくてはならないものです。誰かに決定権を丸投げして考えることを止め、言われたように生きていくのでは意味がありません。また、如何に素晴らしく思えても、「宗教的な教え」「世間の常識」「テレビやネットの情報」「権威者の言葉」を丸呑みすることも危険です。
頼れるのはまず自らである、ということです。

ただ問題は「自ら」とは何であるか、「自ら」とされるものが頼るに値するのは何故であるか、「自ら」つまり「自己」と「自我」とはどう違うのか…などをよく考えていく必要はあります。

ともあれ、他者に決めてもらい指示されることを無批判に受容してはならない、ということてす。

しかし弘法大師の言葉には、どこかしら「師がいない」ことへの絶望や嘆きの色があります。何故でしょうか。

実は釈尊の別の言葉に、「善き友を得るのは修行のすべてである」というのがあります。
「犀の角のように」と反対の事のようですがそうではなく、世間的なことばかりの人、あるいは権威だけの人、修行を共にしない人などは捨てよ、ということであり、世間と必要以上に関わらず、権威で他者をコントロールしようとせず、修行を共にする人と歩むことは極めて大切にされています。
その理想の人物が「師」です。
弘法大師はその師がなかなか得られないと嘆いているのです(この文章は二十代半ばのもので、後に恵果阿闍梨という師と出会うことになります)。

正直なところ、本当の善友や師を得ることは(万人や森羅万象はすべて師である、という話はまた別にして)至難です。なかなかいるものではありません。
ですから基本的には「犀の角」のように世を渡る必要がありますが、しかし釈尊や弘法大師の「言葉」、あるいは先師方の「言葉」はたくさん残っています。それらはまさに末代に至るまでの善友や師の「言葉」です。
これらは権威で私達をコントロールしようとする言葉ではありません。いつまでも共に修行をしてくださり、私達を見守りアドバイスをしてくださる「言葉」です。だから丸呑みするのではなく、吟味して理解して納得してこれを行え、と言われています。ダメと思うなら、別の道を行けば良いのです。

そして、「別の道」ではなく「仏道」を選んだ私達には探さずとも、最高の善友や師がいます。
世間を「犀の角」のように渡りながら、常に善友たる釈尊や弘法大師、先師方の言葉を学びながら歩んで参りたいものです。

本日はその最高の善友であり師である釈尊のご生誕の日でありますから、改めてその生涯や御教を思い、また改めてしっかり歩む決意をしていきましょう。