प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

黒子

'22.12.11

私の出身高校は「大阪市立南高等学校」と言います。大阪市谷町にある小規模高校で、非常に残念ながら今年ついに統廃合の憂き目に合いました。
実は南高校には普通科がなく、「英語科」「国語科」の2学科がありまして、それなりに特色のある人文系教育が施されていたのですが、私はそのうちの国語科、しかもその一期生でした。

高校では様々な国語教育、また古典文化教育などが行われていたのですが、特に「文楽」には力を入れていて、国立文楽劇場などに校外学習に行ったり、近松門左衛門の読解などもやっていました。

文楽というのは、簡単に言えば人形劇で、人形浄瑠璃の一派。黒子が人形を操り(通常は3名でひとつの人形を動かす)、義太夫、三味線で興行されます。
台本作家として有名なのが近松門左衛門で、代表作に『出世景清』『曽根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』『女殺油地獄』…などがあります。

ストーリーにはいくつかの類型がありますが、やはり世話物・心中物が有名でしょう。江戸幕府に禁止されるくらいでしたから、それなりに影響力はあったと思われます。

心中物は簡単に類型化すれば、許されぬ恋に落ちた男女が色々あって最後は心中して恋を貫く…的なものですが、如何にしても心中に辿り着くという、読みようによっては抗えぬ人間の業の深さ、どうしようもない流れに飲み込まれる男女の悲哀を描写したものです。

これを人形劇で演じる。
この、人形劇というやり方が私には非常に興味深いんですよね。

文楽を見ていると、人形がまるで生きているかのような動きをしていて、いつのまにか黒子の存在を忘れてしまいます。おそらく人形も自分たちが人形であることを忘れ、自由意志で動いているんじゃないか…のように見えてきます。
しかし、実際には黒子に操られていて、心中という最後を必ず迎えるのです。

私達も皆、この人形と同じように、自由意志で動いているように思っているけれど、実は見えざる黒子がいるのではないか…操られているのではないか…と、高校時代の私は感じたものでした。

もしそうだとしたら、私にとっての黒子とは一体何なのか、黒子がいると気づいて生きるのと気づかずに生きるのとでは、「物事の経過や結末」は違ってくるのか。つまり、業の因果に流されるだけではなく、何かしらそれを超えることができるのだろうか…と。

高校時代には、まぁそこまで。
それ以上は考えを深めることもなく、いつしかそんな思いを持ったことも忘れてしまいました。

それが、母校の統廃合の話を切っ掛けに、当時のことを振り返るにつけ、これを思い出したわけです。

私にとっての黒子とは何か。
黒子とはそもそも何なのか。

如来、ダルマ、前世からの業。
文化的規定、言語、歴史、先人、死者。
生存環境、まわりの人々。

恐らくそういったもの、有無を言わさず与えられたもの、投げ込まれている状況、そんなものに私は強く規制され動かされているのですが、それに気づかずに、あたかも私は自分の自由意志で生きて、考えているのだ…と思い込んでいるんじゃなかろうか。
だとしたら、あの人形たち、黒子に操られながら、あたかも自分で動いていると誤認しているあの人形たちと私とは、あまり違いはないんじゃないか。

ただし、私達があの人形たちと違うのは、私達は黒子の存在に気づく可能性を持っていて、黒子に働きかけていくささやかな自由をも持っていること。

その気づきと働きかけの意志の源泉、根拠こそが、真如の用大であり、私達は実は単なる人形ではなく、舞台すべてを統括している、「場」そのものであった…ということ。そこを知れば、黒子を人形が包み込み、人形が黒子を活かし、舞台すべてを転換していける、そんな存在に私達はなっていけるのではないか…。

黒子に無意識に動かされるのは、業に流され翻弄される凡夫。黒子に気づき、それを逆に活かして舞台全体を転換していくのが、菩薩。

私たち仏教徒は、黒子…業やサンスカーラの絡みを明快に意識し…少なくともそれがあると認めながら、黒子を排除するのではなく(それは無理)、それをうまく活かし逆にコントロールしながら、舞台全体を意識して、流されて心中する結末に至ることを回避していく生き方を模索していかなくてはならないな、と思っているところです。