प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

常懐悲感心遂醒悟

'23.09.23

妙法蓮華経の如来寿量品に「常懐悲感心遂醒悟」という言葉があります。
常に悲しみを抱いていることで、この心は遂には悟りに至る、という意味です。

人は2度産まれる、と言います。
1度目は母から赤ちゃんとして産まれるのですが、2度目は「人間として」新生した時です。
人は生きていると、いずれ何かしらの後悔や悲しみを抱え込むことになります。とりわけ、誰かに対する後悔や悲しみを。
それは親や子供に対するものかも知れませんし、友人や恋人や配偶者に対するものかも知れません。

たとえば親が亡くなったあと、「孝行したい時に親はなし」ではないですが、ああしておけば良かった、こうすべきではなかったか、などと思い悩む方もいらっしゃるでしょう。

実はそのような感情は、人間に特有のものです。
この感情があるからこそ、人間には倫理や自己犠牲の思いやり、そして宗教があるのです。
動物にも恐らく、基本的なこのような感情はあると思いますが、それは自己保存の本能による「困惑」に近いものでしょう。
そうではない、相手を慮った後悔や悲しみこそが、人間の人間たる所以で、これを痛切に感じた時にはじめて、人は2度目の誕生に至るのではないでしょうか。

ですから、もし誰かに対して痛みや悲しみや後悔を感じているのならば、それは第2の母たる存在です。性別は関係ないですし、年齢も関係ありません。
自分を真の人間にしていただいた方が、第2の母です。

ならば、第1の母と同様、第2の母にもやはり孝行しなくてはなりませんね。
何が孝行になるのか。
第1の母に対しては見える世界の話、主に肉体や経済などで物理的に幸せになることです。心身健康で、生活がきちんとできている姿を見せてあげること。
そして第2の母には、善き人間になることが孝行です。精神的に成熟し、見えない世界…神や魂を信ずるならば真摯に祈る人間になることですが、それを信じなくとも、痛みのわかる優しい人間となることです。

常懐悲感心遂醒悟とは、本当に深い言葉です。
悲しみや後悔を通らなくては、人は本当の意味で人になれない。
後悔や悲しみは厭い避けるべきものではなく、相手が私に下さったものです。しっかり受け止めて、人生を歩いていく支えとなさってください。