प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

認識の彼方

'24.06.26

宗教の正邪優劣に客観的な基準なんかない。だから正邪優劣を語る輩の言葉に耳を貸す必要はなし。

たとえば壮大華麗な理論があったとして、だから何やねん、としかならない。

理論なんかそれぞれ凄いよ。

認識の彼方に我々を連れ出していく仏教の思想や教学体系は恐るべきものだし、コトバが消え失せる真言密教思想のその緻密さや複雑さなんか目眩がするくらい。
また、キリスト教神学のゴシック建築の如き教理体系を一度でも学んだ者は、そのラッパの鳴り響く荘厳さに圧倒されざるを得ない。
イスラーム神学に比肩する首尾一貫した美しさと清らかさを持つ体系はなく、恐らく世界一だろう。
音なき音の光を放つウパニシャッド、存在の極致たるヒンドゥー思想の底まで把握できる者が果たしてどのくらい存在するのか。
各宗教に派生した神秘主義思想、イランの光の哲学の如き思想の輝きを君は観たことがあるのか、と。

それぞれの思想をいくら比較しても、優劣なんか客観的にはつけられない。
自分の立場を是とした基準、恣意的な物差しで判断するしかない。

しかしいくらそれをしても、自然秩序を作り上げそれに縛られない万能の唯一の神がいたら仏教やヒンドゥー教なんかは吹っ飛ぶしかないし、その唯一の神がいなければ、キリスト教やイスラームがいくら精緻な理論を組んだところで妄想でしかない。

客観的な基準は、ない。

だから私たちが相互理解なり布教伝道なりをしたいなら、いくら確信を持っていようと(そしてその確信は自身にとっては必要不可欠なことだ)、他者を説得する客観的な材料は誰一人として持ち合わせていないことを理解する必要がある。
体験なども、それが主観の妄想ではないと〈客観的に〉証明することはできない。あらゆる宗教の偉大な方々は皆、あなたよりも深く宗教的な体験をしてきているはずなんだから。

さて、他者に向き合うその時、そうやってあなたは足場を失った。
軸足すら覚束ないあなたは、次の一歩をどこに置けば良いのだろうか?
あなたが「信じているもの」、宗教であれ非宗教(科学でも唯物論でも金でも)であれ、この構図は同じこと。

さあ、どうしましょう?