断見救い難し
'24.06.26常見と断見ってのがあり、どちらも偏執の邪見なんですが、常見はまぁ、その「常一主宰」の魂なり神なり、それを前提に、ではそれが如何なるものであり、縁起・無自性・空の観点から考えたら不合理なのかそうでないのか…を考えていくことはできますし、何かを信じる心性は仏教においても大切なので、ぜんぜん大丈夫なんですよ。常見のまま信仰しても、善因を積めば善処に行くことは可能だし。
断見は救い難い。唯物論者やニヒリストのみならず、仏教学者や僧侶の8割方は後生暗いよね…。
まぁ断見でも善因を積むことはできますが、信や献身なき善因はどこまでも自我に紐付きの我執に染されたものに留まる傾きが強い気がしているし、不可視の何か(仏、神、真如、あるいは宗教的なもの全般)を結果的に誹謗する危険も高く、やはり常見と比べても救い難いと思うんだよね。