祈り
'24.07.06「祈ることしかできない」という言葉が昔から嫌いだ。
それは無力の弁明であるか、あるいは無力の証明でしかない。
「寺(ヒマラヤ山中でも砂漠の僧院でも)に籠もって修行や祈りにリトリートした一生を送るなんて、自己満足で無意味だ」とも、よく言われる。
確かにそれは一面の真実であり、現実に慈悲をもって働く意味は大きいし、否定されてはならない。
しかし、祈りにはそれそのもののみに絶大な力、意味がある。
祈りの心をちっぽけな限定されたマインドの問題、優しさや気持ちの表現、気休め程度に考えているならば「しか」になるしかないけれど、果たしてどうだろうか。
そのような宗教ならば、いずれ祈りより社会事業に邁進しはじめるしかなくなる。
そして宗教、祈りは消え去るしかないだろう。わずかに社会道徳や人倫の教えのタテマエの標語としては掲げられるかも知れないけれども。
ラーマクリシュナのことば。
「思想が持つ力を理解している者は数少ない。もしある人が洞窟に入って閉じこもり、そして真に偉大な思想を考えだした後、そこで死んだとする。しかし、その思想は洞窟の壁から滲み出し、空間を振動し、遂には全人類に充満するだろう。思想の力とはこういうものだ。蓮の花が開いたら、呼ばなくても蜜蜂は自然に集まってくる」
仏教だろうが他宗教だろうが、広がるものはそういう区別を超えたものだ。
即効性はないし、誰も気づかないのかも知れない。しかしそれは普遍的叡智として必ず宇宙を覆うのだろう。