筏
'24.07.17あらゆる主客分別、言説や認識、教説などは詰まるところ世俗であり、真如も真如と言った時点で真如ではないのだけれど、以言遣言、致し方ないから真如と言うしかない。
その有無を超えた真如の事実からは、仏教もヒンドゥーもイスラームもないし、神も仏も人も犬も砂も風も西も東も仮設された幻でしかない。
ただ、私たちが今いる妄念世俗の状態から「そこ」に至る便宜を与えてくれるもののみが価値のある言説、仮の手段、筏であって、いわゆる「宗教」はそういう次元のものとしての限りにおいて解像度の精粗(正邪ではない)があり、そこを踏み違えたならば、どこまで行っても「自分」「あなた」は波のままで、一大海(真如)であったことに気付くことはないし、海を見てしまって描写してしまう。
……………………………………
教えに解像度の精粗はあるけど、その単位は実は「◯◯教」ではない。どの宗教伝統においても粗い教えから精髄を突く教えまで、だいたいすべて存在している。精粗の段階のどこらあたりがメインラインか、の違いはあるけど、実際、現実的にはどの宗教集団においても、自他分別と言説ドグマに振り回される人が中枢を張ってるし、そういう「教義」を金科玉条にしてるわけで、たいして変わらん。