प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

業と行

'24.08.01

人は「自分はそのような者である」と考えている、まさにそのような者になっていくしかない。

朝から晩まで「私は馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ」と思うなら、あなたはしっかりとした馬鹿になっていく。「私は罪人だ、悪人だ、凡夫だ」と刷り込み続けるならば、あなたはきっとそうなる。そうなるしかない。
そしてそれは謙遜でも事実でもない。

想念はカルマ(意業)であり、その力は強力なサンスカーラ(盲目的指向性/傾向性、型/癖…性根)として定着していく。

「私には仏性があり、如来も森羅万象も私もあなたも不二であるし、真如大海の光そのものだ」と、最初はそうは思えなくとも、強いてそのように想念して自らの如来性を認知しようと努めるならば、主客相対の妄想妄念はいずれ剥がれ落ち、あなたは「そのようなものとして」あることになる。

真実がそのようなものであるならば、自らを馬鹿だの罪人だの思い込むことは、真如(如来、仏性)への、まったくたいした侮辱ではないだろうか。
隈なき光は光であって、屈曲はない。まったき光は光であると正しく認知し、ことさら闇(相対性)の名を付す必要はない。

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【追記】

身と口と心の三業、とは言いますが決して横一線ではなく、心は身と口の後についてくる第三のカルマで、しかもその破壊力は随一な第一のカルマです。
その第三にして第一のカルマにより、人のサンスカーラは決定的に縛られますし、サンスカーラを超えるにも結局は心というカルマの最高のもの、つまり菩提心を起こすことがなければそれを超えることはないです。

だから、やる気があろうがなかろうが、本心だろうが偽善だろうが、そんなことに関わらずまずは身と口のカルマを実践して、後ろに続く心を引き出していく必要がありますよね。

「心が整ってから勉強する」とか言ってる受験生は試験前日まで勉強などしないものです。間に合わない。