法句経を読む 15
'25.11.05悪しきことを作す者は
ここに憂い
かしこに憂い
ふたつながらともに憂う
おのれの
けがれたる業を見て
彼は憂い
彼はなやむ
……………………………
人間は悪への傾向性と、善への傾向性の両方がある。
善悪の根本を突き詰める時、悪は「主客相対、自他二元性への傾き」であり、善は「主客無分別なる絶対への還源」となる。
前者を凡夫における随染の業用、後者を翻染の浄相とも言うけれど、まぁそんなタームはどうでも宜しい。これらの傾向性が具体の善悪に繋がっていく。悪徳は二元性の縛りから発するのだから。
そして主客相対世界に生きるしかない我々は、要は、悪への傾向性を皆、持っているということだ。
そしてその傾向性、特に悪への傾向性が実際に発動されて具体的な言動になった場合、仮にそれが他者にバレなくても、目先の利益がそれによってもたらされたとしても、その言動はカルマ(業)であり、当人のサンスカーラ(行)として確立して魂の構成要素にがっちり加算されていく。
つまり、当人の魂は低くなり、精神は真実から離れ、知らず知らず性格も生活も暗きに堕していく。
そうやって、死んだ後に善趣には行かない。もちろん主客相対を超えた境地など影すらあるわけがない。
さてでは、どうしますか?