祇王と仏
'25.12.25『梁塵秘抄』に、以下のような今様があります。
仏も昔は人なりき
我等も終には仏なり
三身仏性具せる身と
知らざりけるこそ
あはれなれ
これはこれで、仏教の教えをあらわす法文歌としてはわかりやすくて良いのですが、恐らくこれを本歌取りしたのだろう祇王の今様があり(『平家物語』)、こちらをセットで読むとまた深みが増します。
仏も昔は凡夫なり
我らも終には仏なり
いずれも仏性具せる身を
へだつるのみこそ
悲しけれ
「仏」はもちろん白拍子の仏御前も掛け示していて、清盛に対する当てつけみたいな歌ではあるのですが、そういう背景は脇において一般化して読んだとしても、やはり祇王の歌は素晴らしい。
私たちも口では「仏性」だの「普門大日」だの「而二不二」だの「真如」だの「三輪清浄」だの言うわけですが、しかし実際の行動、また心はそんな話を知らないかのように動いています。
果たして私たちが「へだつる」のは何故なんでしょう。何がすべてを分割して上下優劣をつけ、自分自身を上・優とみなす根源なんでしょう。