六波羅蜜と真言念誦
'26.02.11仏法においては勝義諦たる真如大海に帰入することが成就である。これは離言真如への還源そのものであり、仏法の真髄はここに尽きる。この先はない。
しかし世俗にある我々は勝義だけでは道に迷う。「言語活動(言説)に依らずして、究極的なもの(勝義)は説示されない。究極的なものを理解せずして、涅槃は証得されない」『根本中頌』24・10。つまり言葉と世俗の実践を経なくては真如に随順することはできないのであるから、ここに世俗諦、依言真如としての仏道を記していこうと思う。
実践の前提として、人は三帰依(四信)、出離の心と菩提心が必要である。
「根本(自己の本性が自性清浄心・真如心であると信ずる)」「仏(仏に無量の性功徳あるを信じ礼拝供養する)・法(実践法としての六波羅蜜・真言念誦に大利益あるを信ず)・僧(自利利他の菩薩衆を信ず)」への信心・帰依である。
出離。いかなる好ましいものであっても、すべては移ろい崩れ去り、我々を執着や愛欲に縛り付ける因となる。だからそれを気に留めるな、捨て去れ。「またそれを得たい」と思わず、輪廻の中には何も好ましきものはあり得ないと考え、また悪しきものも真実にはあり得ないと考えて、頼りにならないものを頼りにならないと知る。輪廻と世俗を厭え。
この出離の心を胸において、次いで菩提心を起こすべきである。
菩提心の詳細については後述する。
さて、菩提心と共に行われる仏道は具体的には「止観」や「念仏」など様々な方法があり、どれも素晴らしい実践たり得るものであるが、ともあれ基本的には六波羅蜜に沿って進められるであろう。
勝義諦の真如とはつまり空性であり、般若波羅蜜である(一般に縁起=無自性=空とされるが、実際には無自性と縁起は世俗諦であり、それらは勝義には空であるという意味である。たとえば十二支縁起は世俗諦であり現実だが、それは妄念の形成過程を示す構造であり、実体としては空であり、波の如く、独立したものとしては実在しない。相依性縁起も言語認識による概念設定で無自性であるが、いずれにしても空性により成立しない。世俗や言語、概念、主客など相対的一切法は成立しない。それらを超えた不二・一法界・無分節の真如…しかもこの言語概念を超えた次元では認識の彼方である性功徳・・・こう言い得るのは依言真如においてだけれど・・・を内実とする大海、それを般若波羅蜜という)。この認識の完成が仏法の完成である。
他の五波羅蜜は世俗諦であるが、般若波羅蜜の認識なき五波羅蜜は世間の単なる世俗的行為であり、仏法の完成には導かない。般若波羅蜜に裏付けられた五波羅蜜のみが仏道を進める力になる。そして般若波羅蜜は五波羅蜜なくしては我々には知られない。五波羅蜜により引き出される般若波羅蜜のみが、まさしく空性たる真如の成就をもたらす。この六は一連の数珠のようなもので、ひとつも欠けてはならず、たとえば「布施」の中に他の五がすべて具足されていなくては波羅蜜にはならない。
六波羅蜜は「布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧」である。「布施・持戒」は利他であり、「忍辱・精進」は自利、「禅定・智慧」は解脱を成ずる、つまり六波羅蜜で自利利他解脱を円満するとされる(『宝行王正論』)が、たとえば自利とされる精進波羅蜜においても利他の戒律実践が説かれているのであり、単純な図式化はできない。自利利他相即不二である。
布施波羅蜜。自らの種々の財を施すことであるが、菩薩の布施は空性を基本とした大悲心に基づく。二乗や凡夫の布施は得楽や苦の抑止のために行われる。つまりここに自利なのか利他なのかの分かれ目がある。
持戒波羅蜜。すなわち三業をもって他に利益をなす十善戒を守り抜くという誓願を立てる。不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒を身戒、不妄語戒・不綺語戒・不悪口戒・不両舌戒を語戒、不慳貪戒・不瞋恚戒・不邪見戒を意戒とする。
不殺生…すべての生き物を無益に殺さない。恨まない、憎まない。排斥しない。
不偸盗…盗まない。他人の物を欲しがらない。
不邪淫…不倫をしない。異性に対して邪な思いを抱かない。
不妄語…嘘をつかない。
不綺語…きれいごとを言わない。
不悪口…悪口を言わない。
不両舌…二枚舌を使わない。
不慳貪…物惜しみをしない。ケチにならない。
不瞋恚…怒らない。イライラしない。
不邪見…仏教の教えを正しく学び、般若空の正しいものの見方をする。
十善戒は「三輪清浄の無所得戒」、つまり戒も利他行である。殺生から両舌を七不善というが、その対治の不殺生乃至不両舌を七捨と呼び、意三戒が七捨を動機づける基盤となる。
忍辱波羅蜜。特に怒りを断つこと。怒りはすべての資糧を破壊する。不瞋恚戒と関わる。
精進波羅蜜。善に努力する義であるが、これをふたつに分ける。
福徳の資糧・・・布施・持戒・忍辱
智慧の資糧・・・禅定・智慧
この「世俗と勝義・積善と離業」の双方に努力することを精進という。
禅定波羅蜜・智慧波羅蜜。このふたつは解脱を成ずる波羅蜜であるが、修道にあっては「禅↔慧」であって、相互に絡み合う一体的なものである。『大乘起信論』の如く止・観にそれぞれ配する考え方もあり、そのほうが恐らく正統的な考え方でもあろうが、今は禅定波羅蜜において観法、具体的には念誦と観想(水波観)を示す。但し、真言の観想念誦は観、念誦における三昧は止であり、また水波観そのものが実践であり智慧・般若仏母の現前であるから、これはそのままで止観双運、禅慧不二にほかならず、矛盾はない。
なお、『大乘起信論』における止観については後述。
さて、真実義を決択する般若波羅蜜は勝義諦であるが、これは世俗のこととはある意味で隔絶している。というのも、仏陀(或は菩薩大士)と凡夫(或は初心の菩薩)は一水四見の如く、世俗を唯世俗として見るか邪世俗として見るか、勝義を知るか知らぬかという点で隔絶しているからである。波は海であるが、その波に溺れるならば、海を忘却した波こそが世界なのである。彼にとって、海と波は隔絶している。
世俗と勝義については、基本的には四つに分けて考えられる。
その四つとは、「邪世俗・世俗諦・勝義諦・唯世俗」である。邪世俗とは生滅する妄念により間違えて認識した世俗であり、縄を蛇と見誤ったり、主客相対あるいは常断二見等の盲見、要は「世間一般の見方」であり、錯誤である。世俗諦とは言語化された「勝義への志向を持つ世俗の捉え方、教義」つまり依言真如であり、四波羅蜜もこれに立脚して成立する。世俗諦がなくては勝義は把握できない。究極的には認識の彼方である「離言真如」の勝義諦のみであり、邪世俗・世俗諦ともにすべて本来的には成立していないと見るのが仏陀である。主客分離の邪世俗・世俗諦は幻波のように成立していないのであるから、勝義諦・真如とは関わらない(が、別のものでもない)。それらはすべて世俗諦としてプロセス・階梯として現れるだけであり、登ったら捨て去られるものである。しかし世俗諦がなくては現世での用は為されないのであり、また仏陀であれ方便として世俗諦がなくては、そもそも仏陀とは何であろうか?
「唯世俗」の解釈にはいくつかあるが、ここでは如来が世俗を見渡す場合のことで、如実知見のことである。邪世俗→世俗諦→勝義諦を向上門とすれば、唯世俗は如来の向下門において働く観方であり、唯世俗として観ながら世俗諦として法を説くわけである。
さて、世俗諦と勝義諦、依言真如と離言真如を繋ぐのは、禅定波羅蜜である。戒・定によってのみ、世俗の凡夫に智慧が現前するのだから。つまり(これも実は世俗諦であるが)禅定波羅蜜によってのみ、「階梯を登る」ことができる。四波羅蜜は階梯であり、禅定波羅蜜は登ることである。階梯なくしては登れない。登ることなくしては階梯に意味はない。
禅定波羅蜜の行い方には多様な方法があるが、外形的にいかなる形態を持とうと、観法が基本である。
ここでは、マントラの道を説く。
般若仏母根本真言は、羅什訳『金剛般若経』末尾に記載されているものであるが、西域において特に流布したとされ、そのバリエーションがチベットや敦煌文献に残されている。
『修習般若波羅蜜菩薩観行念誦儀軌』によると、この真言の義として四つ挙げられている。要約敷衍してそれを示すと、以下の如し。
・真言自体が「諸仏菩薩の讃嘆する無量百千万の経蔵を生み出す仏母」であり、まさしくこの真言こそ三身具備の般若仏母そのものであると観ずる「般若無尽蔵」の義。
・百万遍念誦と観想修習を為せば必ず覚を成就すると観ずる「根本般若」の義。
・修習するに随って、世間すべて般若波羅蜜の法の顕現つまり一切空性であることを実証していくと観ずる「般若眼」の義。
・遂には一切障碍を滅し一切諸仏の功徳を得て、大悲・空智・菩提心が成就すると観ずる「金剛般若心呪」の義。
総じて「この真言はそのまま般若仏母の現前顕現であり、覚りを成就する根本因となり、世間の実相を覚知し般若の空智に住させ、現当二世の福智をすべて獲得して成就の果に至らしめる」という「義」をすべて実現する真言である。
よくこの真言の意義を観察し、凡夫行者は尊形の意味による階梯的導きを受持し、念誦と観想(水波観)を次第に双修すべきであろう。
次いで、この真言の内容について具体的に見ていく。
まず全文は、
那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵
唵 伊利 底伊 室利
輸盧駄毘舍耶 毘舍耶 莎婆訶
であり、意味としては概略、「世尊なる般若波羅蜜多母に帰依いたします。オーム、梵天よ、般若仏母よ、帝釈天よ、耳の対象よ、感官の対象よ、吉祥あれ」である。
以下、細部の解釈に移る。
那謨 … 帰依する
婆伽跋帝 … 世尊
鉢喇壞 波羅弭多曵 … 般若波羅蜜多母に
離言真如たる一法界の心真如相について、それは認識の彼方であると言えども、それこそ自身の根本である自性清浄心と不二と信じ帰依する、この真言はそのまま主客不二の一大海そのものたるマントラ・真言である。以上はこの真言の「総」であり、まず主客分離以前の根本が、この真言そのものであるとしてそこに帰依したのち、以下において「別」、つまり依言の次元、心生滅の次元において具体的にどのように顕現され、またそれが如何なる尊格であるのかを顕示するのである。しかしここでは勝義である。真実には概念化できない離言真如である。光背にて標示。主客認識を絶しているから相大用大は言えない。絶対の体大である。海そのものである。「大乘の【法】」である。
唵 … オーム
諸仏菩薩すべてを出生する聖音であり、ここでは相対的世界に生きるしかない我々の波立つ認識次元世界へ離言真如が世間に法報応三身として現れて衆生を救済するよう働きかけて、海と波の同一性を常に覚らしめんとする如く、離言真如は必ず理智不二法身と報応二身の慈悲の働きとなって顕現する。勝義から世俗に現成していく。またこの顕現は、加持の「加」である。蓮座(女陰つまり出生を示す)にて標示す。ここでは報応二身の用としての現れである。本来、海は無分節であり働きかける対象や自己顕現などあり得ないが、「我」が妄念により勝手に分離しているように思い為しているのであり、その本来的同一性に回帰せしめるよう無用の用、大慈大悲の用大として常に我々(波)に作用しているのである。
伊利 … フリーヒ・梵天の種字真言。
脇侍。般若仏母の現前には必ず行者が転法輪を請わねばならないが(加持の「持」である)、梵天がその代表・象徴であり、請転法輪を為し、また一切経説・般若正法の守護をなす。波が自らの海であることを信じて、対境としての理智不二法身の仏母に帰依していく。
底伊 … ディーヒ・般若仏母の種字真言。
法を請うて加持感応するところ、我々はいまだ波ではあるが、そこから海そのものが自覚されることで対象として顕現する、つまり用大によって理智不二法身たる般若仏母(体大相大)が現前する。「大乘の【義】」つまり性功徳(如実不空の無漏の功徳。「大智慧光明」「遍照法界」「真実識知」「自性清浄心」「常楽我浄」「清涼不変自在」の六義。真如は体大、六義が相大であり、「法身」の内容)、如来智の顕現、【法】の内実である。つまり法身とは必ず理智不二たるものである。義つまり中身のない理などはあり得ないのであるから。これこそ認識される勝義、つまり如来蔵である。業識のこちら側に示される相対の絶対である。
そこからのみ、我々に教えを与え波即海を開示せんとする用大・加持を更に示す。用大たる諸仏(報仏応仏)の顕現も行者の機や状況に応じて現れるのである。
室利 … シュリーヒ・帝釈天の種字真言。
脇侍。法を請うてそれを受ける前に、次いで行者は自己を整えなくてはならない。清浄化の象徴たる帝釈天の法螺の音により行者の障碍を催破し、行成就を守護する。具体的にはこれは十善戒を実践することである。しかる後に、開示された法を受ける。
輸盧駄毘舍耶 … 耳の対象の一切経説を左手の経典・梵匧(般若経)で示す。
理智不二法身の般若仏母の具体の教導の働き(用大)の一。根本真言念誦を通して我々の心に働きかけ、空智によって、離言真如に随順させる働きを標示する。それは言語化されないが、我々の側の認識次元でそれを依言真如レベルに顕示されたものが、「縁起・無自性・空」の教説である。現象世界の本質を知らしめるのである。対象の波の現れには自性なく、海であるということ。法無我。
毘舍耶 … 〔感官の〕対象の修習、菩提心を右手の五鈷杵で示す。
般若仏母の具体の教導の働き(用大)の一。根本真言念誦を通して我々に菩提心を成就させる働きを標示する。菩提心については後述。我々の心身も同じく自性なき人無我である。波は波としてありながら自他共に海である。これもまた現象世界の本質を知らしめるのである。
莎婆訶 … 吉祥あれ
法界定印により大悲・空智・菩提心(用大・相大・体大)、つまり、
「唵、絶対真如が我々の波立つ認識次元世界へ、報応二身として慈悲の働きかけ・波即海への働きかけをする事態」
「底伊、海そのものが認識次元で現前する理智不二法身としての般若仏母・如来蔵・波即海」
「那謨婆伽跋帝 鉢喇壞 波羅弭多曵、その理智不二法身の般若仏母と報応二身の慈悲の加持の根源にある〈相対的観念を離れた絶対的な心の本性、不二の空性、真如〉たる勝義菩提心、つまり離言真如一法界なる一大海」
と、我々の
「四無量心(慈悲心)としての用」
「縁起する諸々の事象や阿梨耶識としての相」
「根本の勝義菩提心としての自の体」
の不離一体を示し、根本の空性=離言なる一法界の根本の真如一大海を覚すれば、その時に般若仏母即自身(波即海)即離言真如であることを知り、成就する。菩提心とは、我々の心に他ならないのだから。
そうして、世俗より勝義に還帰しまた世俗に至る無住処涅槃を証する。そしてこれは、蓮(報応二身・用大)・理智不二法身の般若仏母(体大相大)・五鈷杵の中心(離言真如たる一法界・体大)で標示されるし、約めれば五鈷杵だけで示されている。
以上のマントラと観行(水波観)を双修しつつ念誦するのであるが、大悲・空智・菩提心の成就をこの「禅定波羅蜜」によって達成する。
以下では、五鈷杵に示される菩提心について、大悲・空智と併せて述べる。
『入中論』に、「悲心(大慈大悲)と不二智(有無の二辺を離れた般若空智)と菩提心が、諸仏子の因である」また「悲ある者は他人の苦こそが苦に他ならないから、苦しんでいる有情を救うために「必ず私はこの一切世間を苦より抜いて、仏そのものに引き入れよう」と思って必ず発心する。その約束も不二智を捨てては達成できないから、不二智も必ず働く」とあり、仏教徒にとっては大悲・空智・菩提心が成就の因であり、行者の実践の根本が悲心にあることを示している。
この行者の悲心あるによって、言語道断の真如が認識次元世界へ理智不二の大悲般若仏母として現前し、その般若仏母が両手に梵匧(空智)・五鈷杵(菩提心)を持するのである。梵匧(空智)は般若経典である。
以下は五鈷杵(菩提心)について記す。
まず菩提心には「世俗の菩提心(体相と用)・波即海、海↔波の働き」と「勝義の菩提心(体)・絶対一大海」がある。
勝義については離言真如、一切空「であること」に尽きる。「相対的観念を離れた絶対的な心の本性」「離言真如」である。絶対の一大海。
世俗の菩提心として、『入中論』に十項目が示される。
「一切有情への【利益心】【安楽心】【無上心】【慈による柔軟心】【悲による不退転心】【喜による無悔心】【捨による無垢心】【空性による不変心】【無相による無障碍心】【無願による不住心】」である。
この世俗菩提心を階梯・前提として勝義菩提心が完成するが、この十項目は約めれば「布施(財施・無畏施・法施)」と「四無量心」と「三解脱門」にまとめられる。
三解脱門とは、空三昧(すべての存在、あるいは存在現象は空であると観ずること)、無相三昧(空であるゆえ種々の差別相がないと観ずること)、無願三昧(無相なるゆえ願求すべき欲望の対象でないと観ずること)の三つであるが、これは要するに「空観」である。布施については、六波羅蜜の布施波羅蜜において位置づけるので、「五鈷杵」に配当して世俗の菩提心を観想する場合には、これを除く。
故に「四無量心」と「空観」を菩提心として、五鈷杵が標示していることになる。言うまでもないが、この「空観」(相・煩悩から離れようとする阿梨耶識の翻染の浄相)が中央の独鈷であり、「四無量心」(用・波の海への帰入の働き)が周囲の四である。
三解脱門=空観の実践に裏付けられた四無量心による世俗の菩提心によって、一切空性(心真如)と観ずる真の空観が為されるようになり、世俗諦は唯世俗と観られるようになり、「観を離れたとき」、それが勝義諦への帰入、離言真如そのものの独在となる。
さて、五鈷杵には両端があるが、この一方が「願菩提心」を示し、他方が「発趣菩提心」を示す。配当されるのはどちらも「四無量心」と「三解脱門」だが、「行くことを願う者」と「実際に行く者」には違いがあるように、「願菩提心」と「発趣菩提心」にも同じような違いがある。熱烈に慈悲・空を念じる前者だけであっても大きな果があるが、しかし「必ず仏陀となって大悲を実現すべく行動しよう」と真言念誦などの実践を行い、順次日常に地道に慈悲を行ずる後者のような不断の福善はない(『入菩提行論』)とされる。覚りを求めつつの慈悲に根ざした具体の実践、上求菩提下化衆生をこそ、である。
また、五鈷杵中央の球は、相対的観念を離れた絶対的な心の本性、体・海そのもの、離言真如を表しており、それは不二の空性であり、また仏性であり、菩提心の根本である。これは認識次元世界へ現前する以前の、離言なる一法界の体大そのもの、主客分離以前の真如である。勝義菩提心である。世俗の菩提心は勝義菩提心を根拠としている。
なお、五鈷杵の配当については諸説あり、男性原理と女性原理、八識・九識と五智、如来と衆生、五蘊と五智・・・等々。どれも間違いではない。ただここでは、菩提心を観想するのである。
以上が禅定波羅蜜であり、仏道は六波羅蜜に沿って実践され、終極においては真如に還源成就して仏陀となるべきである。
まとめ
実践においては、「三帰依・四信」「出離」を初門とし「大悲」を根本動機として(「世俗の菩提心」を「空智」に貫かれた「六波羅蜜」において「真言念誦」として)修習する・・・のが基本的な枠組みとなる。世俗の菩提心の内実としては、「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」である。これは勝義菩提心を根拠として成立する。
三学に沿ってこれをまとめると、まず戒学は十善戒である。
定学は世俗の菩提心の修習(真言念誦)であるが、この世俗の菩提心の内実は「布施・三解脱門(空観)・四無量心」を「完全に実践する為に仏陀とならんとする心」であり、世俗の菩提心の中に出離(捨無量心)・大悲(慈・悲の両無量心)、六波羅蜜(布施など)の実践、空観も含まれており、すべて相互に繋がり合うので、世俗の菩提心の修習には理念的に仏道のすべてが含まれる。実際の真言念誦の観想においては、空観・四無量心を据えていくことは前述した。
慧学は勝義菩提心、つまり相対的観念を離れた絶対的な心の本性、真如を成就すること、しかもそれは無量の性功徳を内実とする理智不二法身、更に用大の成就そのものである。
結局は三学すべて、特に定学には六波羅蜜全体がその根底に置かれるので、「三帰依・四信」「出離」「大悲・世俗の菩提心」「六波羅蜜」は具体の実践においては一体である。