प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

守護尊等の信仰

'26.02.11

現世利益を説く「天部信仰」あるいは「観音信仰」などは、真如を覚して云々・・・とは相容れないように見えるが、そうではない。
究極的には天部であれ菩薩、如来、人間、森羅万象は真如一大海であり、もちろん拝むもなければ信仰もなく、主客もなく、言葉も概念もない。当然、現世利益もないし受け手も与え手もありはしない。
しかし我々は、無明妄念によって幻のように現われた相対的現象世界に縛られて生きている。
ここを足場に、真如に向かうしかない。
その時に、この世界には森羅万象があり、人間、如来、菩薩、天部は存在している。
この妄想の世界を脱するためには、「この世界」の存在である守護尊に仏道守護を願うことはあって然るべきだ。それを否定するならば、医者も弁護士も親ですらも、他者や森羅万象すべて「無用」であろう。
たとえば吉祥天は、富と美を与える神であるが、我々はそれをそのまま願ってはならない。これは単なる「現世利益」であり、我々のサンスカーラを無明に縛り付けてしまう。そうではなく、霊的な豊かさと美しさを求めよ。その豊かさが平安となり、美しさが光りとなって、仏道実践に向かう構えが徐々に出来てくる。たとえば吉祥天は、その努力を守護助成して下さる。他の天部についても推して知るべし。
また観音菩薩に危難からの救済を求めるについても、そもそも我々は悲惨な現象世界を悲惨な状態で経巡っている。しかし、この世界でこそ光を見出して真如を覚さねばならない。その道中を守護して下さるのが観世音菩薩だ。そこは廻向供養においても変わらない。
結局、現世利益を求めれば与えられるだろう。しかしそれは幻に執着することでしかない。そうではなく、真如への道行きのために、この相対世界に生きる不覚の我々がこの次元において、仏道成就のための環境あるいは心身守護のために天部や観世音菩薩の冥助を期するのみである。