仏教の水飲み場
'19.12.30『百喩経』という、様々な説話を集めたお経があります。仏教を喩えを使ってわかりやすく説いたものです。
『百喩経』の説話にはなかなか面白いものがたくさんありますが、今日はその中からひとつ短いものを、ご紹介します。わかりやすく訳された『ブッダの小ばなし』(多田修編訳、法蔵館、2019)からの引用です。
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夏のことです。
この日は特別に暑くて、あちこちに熱中症になりそうな人がいます。この人ものどがカラカラで、フラフラしながら歩いています。
「あそこに水がある! なんだ、かげろうで景色がゆれているだけか…」
それでも歩いていると、ついに大きな川にたどり着きました。
でもこの人、川の水を飲もうとしません。そばにいた人が聞きました。
「のどがかわいてるんでしょ。なんで水を飲まないの?」
「飲もうと思ったのですが、多すぎて飲みきれません。だから飲みません」
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「そんなバカはいないだろ〜」と皆さん、たぶんそう思われるかも知れません。確かに、実際にこんな状況になったら、皆さんも私も水を飲むと思います。
しかしこの話は、「譬喩、もののたとえ」です。
仏教を学ぶ、あるいは実践する時によく考えてみてくださいね、というお話なんです。
仏教にはたくさんの経典があります。一生かけてもぜんぶは読み切れません。ものすごい分量です。
また、研究書や解説、論文まで入れたら、どのくらいあるかわかりません。使われる言語も多様ですし、難解で哲学的なものもたくさんあります。
実践するにしても、真言念誦、念仏、題目、瞑想、座禅、たくさんあり、それぞれひとつをやるにも一生ものです。また、戒律もあります。
これらはすべて、私達の魂の渇きや苦しみを乗り越えさせるためのものですが、あまりにも膨大で、説話の主人公の前を流れる大きな川のようで、私達も仏教という大河を前に呆然としてしまいそうです。
そうして、「私に仏教は難し過ぎるわ」
と、一切を「私に関係ない」と捨ててしまう人もおります。
でもそうじゃない、大河すべてを飲み干さなくても、渇いた分だけを手で掬って飲めばよいのです。自分に縁があった「ひとつの教え」「ひとつの実践」を見つけ、それをコツコツとやるだけです。
僧侶は川の専門家です。だから川の全体をちゃんと学ばなくてはなりませんが、渇きを癒やすためならば、必ずしも川すべて飲まなくても良いのです。
この説話は、川の大きさにびっくりして、ひと掬いの水すら捨ててしまうというお話でしたが、それはまったく愚かでもったいない話です。仏の教えを学びまた実践することも実はまったく同じなんだ、という喩え話で、そうやって仏教すべてを捨てるのは非常にもったいないことだ、と教えてくださっています。
お寺は「川岸」です。
仏教はいつもお寺に流れています。行事だけでなく、うちのお寺では毎月、法話会や御詠歌をしています。それ以外でも、いつでも水が飲みたくなれば来てください。
お寺は川岸、仏教の水飲み場です。