प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

'21.02.22

今、たとえば「ニューデリーの国際空港に立っている人がいる」という「現状」があるとして、その人が「なぜそこ立っているのか」は、その人のそこまでの人生の様々が直接間接の原因となって、「ニューデリーの国際空港に立っている」という事態が現れている。

細かいことを言えば「小学生の時に後ろから声を掛けられたお陰で立ち止まって車事故を回避した」から、今ここにいるのだ、あるいは「母親が妊娠中に鬱からの自殺を、○○という俳優の映画を見て思いとどまったから」そして「その俳優は本来の主演が病気になった代役だった」から、今その人が「ニューデリーの国際空港に立っている」ことになる。

直接的な話を言うと、「その人」は「旅行」「殺人犯の高飛び」「留学」「出張」「単なるトランジット」など様々な理由で「ニューデリーの国際空港に立っている」のだろう。

しかしいずれにしても、「今、ニューデリーの国際空港に立っている」という物理的な事態は、変わらない。

つまり、ある人の現状というのは、過去の様々な縁、カルマの集積であるということ。その人の過去の(前世と言いたければどうぞ)行為が、今の状況を規定しているわけです。だから、「あなたが今こういう状態で、こういう境遇なのは、あなたのカルマや縁、業や共業の結果ですよ」というのは、正しい。ニューデリーの国際空港に立っているという状況は、いずれにしても様々な過去の集積の結果だ。

しかし、「ニューデリーの国際空港に立っている」という状況から、「あなたの過去はこうだった」とは言えない。一見すると同じ状況に見えたとしても、そこに至るプロセスはすべて違うし、動機や目的も違う。カルマ的な言説の誤りはこのあたりにあるんじゃないか。

そしてもっと大切なことは、今「ニューデリーの国際空港に立っている」あなたは、ここから日本に帰ってもいいし、バラナシに行くもいいし、南インドに行ってもネパールに行っても、アフリカに飛んだって構わない。観光旅行でも語学留学でもシタールで弟子入りでも、安宿に沈没してマリファナまみれにだってなれる。自由だ。その自由な行動が、将来のあなたの「今」を規定していく。

業って、そういうことだ。

つまらない社会的差別原理ではないし、教学上のテクニカルターム自体が重要なわけでもないし、専門家の概念でもない。

普通の人が、普通に、どうしたら善く生きられるのかという問題であり、この世界のありかたそのものの話だ。