प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

イェーガー神父

'09.07.05

イェーガーというカトリック神父がいます。禅に接近し過ぎであり(印可も受けています)、その神秘主義的な主張が神の絶対性を侵す、というような理由でバチカンから活動停止命令を受けた方(破門はされておらず、今でもベネディクト会士)ですが、その言葉で非常に示唆的なものがあったので、書き留めておきます。

私は「海と波の譬え」を(便利なので)色々な場面でよく使います。これは『大乗起信論』にも似たような譬え(水波の譬)がありますが、これに限らず、『華厳経』その他にも海や波にまつわる隠喩・比喩はたくさんあります。

ここで紹介するイェーガー神父の比喩も、海と波を使っています。

「だが、自己同一といっても、個(人間)が増長し、のさばって超個(神)になるのではない。もしも波が「俺は海だ」と認めるなら、そこにはまだ二つのものが、波と海が、あるだけなのです。神秘主義の経験では、この二つということが乗り越えられるのです。波の自我は流れ去り、その代わりに、海が自分自身を波として経験するのです」

ポイントは最後、「海が自分自身を波として経験するのです」。これですが、つまり「波が自分自身を海として認識するのではない」ということです。似たような事態に見えますが、まったく違う事態です。
恐らくここを踏み外した自我の肥大した「神秘主義者」や「行者」が多くいるのではないでしょうか。

真実の「神秘主義」に、個人崇拝の入る余地はありません。もちろんこのことは、仏教においても同様でしょう。神・真如は私であり、そして私はすべてであり、現実にすべては個に顕現するからです。