प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

事釈と理釈

'20.05.12

我が滅後において五百年は諸の比丘なお我が法において解脱堅固なり。次の五百年は我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は我が法中において闘諍・言訟し白法隠没し損減して堅固なり。

『大集月蔵経』

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いわゆる「末法思想」にもいくつかパターンがあり、「正法・像法乃至末法」の三時説が主流ですが、ここに挙げた「五五百年説」というものも有名なものです。
これを事釈のみで考えると、さていつからが末法であるか、後五百歳であるか、などという末節の議論になり、仏滅年代がああだこうだと隘路にはまっていきます。
こういうものは自己一身においてどう考え如何に作用進展するのか、という理釈こそ重要であって、自分自身の境の浅深がそのまま解脱堅固乃至白法隠没堅固に他ならず、たとえば五姓各別であれ諸々の教判であれ「西方浄土や地獄」であれ、事釈で考えてしまったらあまり有意義なことにはなりません。
経典に描かれる「荒唐無稽な話」なども同様で、事釈であれば無意味、精々が単なる比喩表現になってしまいます。しかし理釈によってこれら受け止めるとき、すべてが真実の教法になって立ち上がってきます。