प्रज्ञापारमिता
~仏教のおはなし~

ヒポクラテス

'09.10.01

「ヒポクラテスの誓い」が現代にどういう評価を受けているかは知らないけれど、基本的にはああいう理念は普遍的なものであろうと思う。だからたぶん、「私はヒポクラテスの徒である」と宣言する医者がいたとしても、それはそれで別にかまわない。
ただそれは、ヒポクラテス当時の医術のみしかやらない、ということを意味しているわけではない。理念は普遍でも、実際の技術や病気への対処手法は進歩するし、新しい現代的な病気や医学的課題は出てくるのだから。
そんなこと当たり前で、いくら進歩したからって、ヒポクラテスを否定することにはならない。
しかしたとえば、「ヒポクラテスの誓いは当然ながら、その技術や知識も当時のままから動かしてはならない。それは医神の命令だ」とされていたとして、それを墨守していれば、医学は限られた役割しか果たせないだろう。

実はこれと似たような構図は、宗教においても描けるのではないだろうか。
原理主義というのは、後者だ。実際、そういう立場の考え方を「宗教的に純度が高い」とする考え方は根強い。しかしその場合、現実の状況を無視して暴発するか解釈改憲ヨロシク便宜主義の塊になってしまっていたりするパターンが多い。
これらはすべて言説の底に秘められた本質的な部分を閑却してしまい、頑なに表面のマニュアル、池に映った月を大切に箱に入れようと悪戦苦闘する姿にしか見えない。
無論、ヒポクラテスの誓いを無視して暴走する…普遍を忘れて目先の有象無象に幻惑されてあらぬ方向に行くことは、墨守よりも一層、悪いことは間違いない。

この両極端を排して進むのが、中道であり、生きている仏教ではないだろうか。これは常に観察、検討、調整、観察、検討、調整…という作業を繰り返しながら螺旋状に上昇する運動であって非常に迂遠に見えるやり方だから、人は弱ったときにはマニュアル的原理主義か感覚的無軌道への誘惑に抗しがたくなる。
しかしそこで止まらなければ、仏教ではなくなる。